恋風
その18 にゃー



案内された部屋は六畳ほどの部屋で、客間のようだった。
伊坂が葉奈の荷物をベッドの下に置いてくれた。

「好きに使って。この客間はあんまり使ってないんだけど、掃除してもらったから」

誰がですか?と聞いてみたかったが、やめておいた。
たぶん、数人のお手伝いのひとがいるに違いない。
これだけの屋敷を、伊坂の母がひとりで掃除するなんて思えなかった。

葉奈は窓から庭を眺めた。
かなり広い庭の向こうに門が見える。
初め気づかなかったのだが、車庫までの道のり、公園のような景色と思ったのは伊坂家の庭だったのだ。

その眺めに、葉奈は急に途方に暮れた気持ちに襲われた。

しんとした静けさに気づき、葉奈は不安に囚われて背後に振り返った。
ひとりぼっちになったのかと思ったのだ。

伊坂はそこにいた。じっと葉奈を見つめて。

「先生」

「この家では、その呼び名は禁句。正解は?」

ほんの少し口元に笑みを浮べた伊坂が言った。
葉奈は笑い返そうしたが、どうしても笑えなかった。

「…翔」

よく出来ました。とすぐに返ってくると思ったのに、彼は何も言わなかった。

葉奈は落ち着かなかった。
なんだか得体の知れない細かな震えで、全身がぞわぞわする。

彼女は必死で話題を探した。

「あの、玲香ちゃん、とっても可愛いですね」

「うん。ちっとも育たないんだよな」

「育たないって?」

「成長しないってこと」

「そうなんですか?それにしても、ずいぶん歳が離れてるんですね」

伊坂の眉がくいっと上がった。口元に温かな笑みがある。
部屋の空気が途端に和み、葉奈は胸の内でほっとした。

「九時半だな。一時間半くらい仕事するかな。急ぎの仕事、期限が三日しかないんだ」

腕時計で時間を確かめてドアに向かった伊坂の後に、葉奈は着いて行った。

彼専用の書斎は、葉奈に割り当ててもらった客間の隣、二階の一番端から二つ目の部屋だった。その隣の一番端の部屋が伊坂のプライベートな部屋らしい。

広々とした書斎には、学校の彼の個室に負けないほどの書籍があった。
けれど部屋を掃除してくれるひとの腕が良いのか、とても片付いている。

学校で仕事をしている時と同じく、仕事に集中してしまった伊坂は、一切口を聞かなくなった。
書類をじっと眺めているとき以外は、ものすごいスピードでキーを叩いている。

伊坂は絶対に、葉奈の存在を忘れているだろう。
それを寂しいと思う反面、ほっとしてもいた。
仕事の合間に、思う様、彼の姿を眺めていられる。

葉奈がやっているのは、いつもの学校の資料作りだった。
慣れた仕事だから、メモと本があれば質問しなくても出来上がる。

「葉奈、どうして言ってくれなかったんだ」

空いたスペースに、面白いイラストを挿入しようと画像を探していた葉奈は、伊坂の咎めるような声に驚いて顔を上げた。

「何をですか?」

「お前なぁ、時間見てみろよ」
伊坂はそう言うと葉奈の隣に来て、自分の腕時計を指差した。

葉奈は時刻を確かめて「げっ」と叫んだ。

「一時だぞ。あー、明日は学校だってのに。とにかく、風呂に入れ。すぐに支度して来い。風呂場に案内するから」

追い立てるように言われて、葉奈はすぐに腰を上げた。
すでに伊坂は、葉奈が使っていたパソコンを終了する操作をしている。





身体を洗い流して湯船に足を入れた葉奈は、急く気持ちをなだめながら、少しだけゆったりお湯を味わおうとして身体を沈めた。

個人の家の風呂場とは思えないほど洒落た作りになったバスタブは、たぶんジャグジーなのだと思う、色々な装置がついていた。
もちろん、それらを試すだけの度胸も時間的余裕もなかったが。

風呂場のドアの外には伊坂が立っている筈だった。もし誰かが入ってきたら困るからと。

三十数えて葉奈は湯から上がり、さっと身体を拭いて風呂場から出た。

下着を履いていたら、「あっ」という伊坂の叫びが聞こえ、葉奈は飛び上がった。

「ハナっ」

「は、はい?」と、葉奈がオドオドと答えるのと同時に、伊坂が「入るなっ」と叫んだ。

えっ、どこに?

何のことか分からず、葉奈はきょろきょろと周りを見回した。
まだ裸同然の姿だから、もちろん外には出てゆけない。

その時、あろうことかドアがゆっくりと遠慮がちに開き始め、ブラジャーを手にしたままの葉奈がそれに気づいて、驚きに足を竦ませた瞬間、足首に何かふわりとしたものが触れた。

総毛だった葉奈は「キャーッ」と叫んで前に飛び、開いたドアから忍び込むように入って来た伊坂に、真正面から抱きつく形になった。

信じられない事態の展開に、ふたりはそのまま固まった。

回路を遮断されていた頭脳が、やっと機能を回復しはじめ、葉奈は目線の先の伊坂のシャツのボタンをまず注視した。
そして彼のシャツをぎゅっと握り締めている自分の手。

コンマ一秒後、葉奈は現実に戻った。
顔をさっと上げ、相手の顔を見上げた。

顔を強張らせた伊坂と目があった。
葉奈はカクカクカクと口を開いた。叫ぶために。

その時また、彼女の足首に、さきほどのふわりとした生暖かな感触が…

葉奈は、「きゃっ」と叫んで飛びあがった。

「ネコだから。ごめん」

伊坂はそういうと、バスタオルを掴んで葉奈に巻きつけた。
タイミングを見事に外されて叫ぶことも出来ず、葉奈のほっぺたは、ただただ真っ赤に熟していった。
このまま気絶出来た方が、よほど嬉しかった。

なんとも中途半端な沈黙に包まれていた。

「にゃ」

猫の短い鳴き声に、葉奈は足元を見つめた。

ちょこんと座って葉奈を見上げている、愛らしい緑色の目。

「にゃ」

まるで挨拶の返事を催促しているような表情に、葉奈は無意識に「にゃ」と答えた。

猫は満足した様子で、「にゃー」といくぶん長めに鳴くと、その場をゆっくりと歩き、自分専用の小さなドアから外に出て行った。

猫専用ドアがパタンと閉まったのを見届けながら、葉奈はひとり言を呟いた。

「あの猫…最後に『良く出来ました』って言ったわ、絶対」




   
inserted by FC2 system