恋風
その19 夢の中のキス…



ちっとも寝付けなかった。
当たり前だろう。こんな心情のまま眠りが訪れるはずもない。

葉奈の身体の内部では、出所を無くした恥ずかしさと悲鳴と混乱が一緒くたになり、ぐるぐると渦巻いている。

あまりにショック過ぎて、理性と感情の整理がつかないのだ。

ぼうっとしたまま着替え終わり、ぼうっとしたまま脱衣所を出て伊坂と入れ替わった。
そしてそのまま、この部屋に戻ってベッドに入ったのだ。

いろんな状況がぽっぽっと思い出され、受け止めたくないものは無理やり遮断することにした。

ぎゅっと瞼を閉じて、羊が一匹、羊が二匹と、オーソドックスな眠りへのおまじないを唱えていると、ドアがそれなりの大きさの音でノックされた。
葉奈が寝ていないと確信して叩いている音だった。

だが、葉奈は返事しなかった。伊坂に決まっている。

もうこれ以上顔を合わせたくなかったし、謝罪も必要なかったし、先ほどの出来事をまざまざと思い出すような会話などもしたくなかった。

瞼とまじないに更なる力を込めていると、ドアが開く微かな音がした。
どうしようと思ったが、返事をしなかった以上寝たふりを決め込むしかない。

ぎゅぎゅーっと目を閉じていると、ひとの気配がした。
なのに沈黙が続き、葉奈はしだいに怖くなってきた。

幽霊とか…じゃないよねぇ。
そう考えた途端、ものすごい恐怖が湧いてきた。

葉奈が薄く目を開いたとき、人の手が額に軽く触れ、彼女の前髪をやさしく掻きあげた。

「佐倉、起きてるだろ?」

そう問われて「はい」とは答えられなかった。

「頬が真っ赤だぞ」

そりゃあそうだろう。
伊坂の指先が、葉奈の頬をそっと撫でているのだ。赤くならない方がおかしい。

「俺、ふたつ勘違いしてたんだ」

勘違い?ふたつ?

「ひとつは…君と北川が付き合ってると思い込んでたこと」

「はぃ〜?」

思わず口から零れてしまい、葉奈は慌てて口を押さえた。

「やっぱり、勘違いだったか。佐倉、もう諦めて目を開けてくれないか」

請うように言われて、葉奈は仕方なく目を開いた。

「仲良かったから。君と北川」

「だって、啓ちゃんは兄みたいなものだから」

「そうなんだろうけど…他人の…というか、俺の目には違って見えた」

真剣な目が、刺すように葉奈の瞳を捕らえてくる。

葉奈がずっと苦手と思っていたあの目と同じだ。
授業中、視線が合うと、先生はいつもこの目で…
眼差しが強すぎてとても怖かった。

「もう隠しても意味ないからはっきり言うけど…」

伊坂はそう言って、口元を強張らせた。
数秒の沈黙のあと、彼は大きく息を吸って吐き、一拍置いて言葉を発した。

「あの頃からずっと君が好きだった」

幸せへの急展開に、葉奈は着いてゆけかなった。
現実でないような気がして、ものすごく不安が湧いてきた。

これは夢じゃないだろうか?そう思った途端、葉奈は夢だと確信した。
こんなうまい話がそうそう自分の身に起こるわけがない。

頭は確かに冴え冴えとしているが、リアリティーのありすぎる夢も、これまで何度か経験がある…

なら。と葉奈は思った。
せっかくの美味しい夢なのだから、たっぷりと味わわなければもったいなくないか。と。

「で、でも、わ、わたしなんかでいいんですか?」

自分のどもりっぷりに、せっかくの素敵な夢なのに…と葉奈は自分にNGを出した。

だが、夢の中でもあろうとも、『カット、仕切りなおし』とは行かないようだった。
夢はどんどん進行してゆく。

「それって、俺と付き合ってくれるってこと?そう取っていいのか?」

「せ、先生が…よければ」

「先生は禁句」そう言いながら、伊坂の顔が近付いてきた。

夢のはずのキスは、ものすごく濃厚で、葉奈の頭はぼっと霞んできた。

長いキスのあと、唇が離れたときに、葉奈は伊坂に向けた夢見心地の瞳を潤ませた。

葉奈の王子様は、お約束通りに、彼女の身体がとろけてしまいそうなほど愛しそうにみつめてくる。

葉奈の頭に、ひとつの疑問が湧いた。
彼女はため息をつきつつ、目を閉じた。

「ファーストキスなのに、夢の中でしちゃって良かったのかしら?」

その言葉に、伊坂の目が細められた。

「夢?」

伊坂の一言に、葉奈はきゅんと切なくなった。
涙が下瞼にぷっくらと湧いてきて、瞬きすると涙の粒が零れ落ちた。

「葉奈?」

「ほんとならいいのに。これがほんとなら…」

「バカだな、葉奈。ほんとに決まってるだろ」

葉奈は涙を流しながら、その言葉に大きく微笑んだ。
夢の中の王子様は、必ずそう言ってくれるはずだった。

そして甘い吐息とともに、繰り返されるキス…

「愛してる」

遠く、伊坂のささやきが聞こえた。

「愛してる」

遠のいてゆく意識に心地よく身を任せながら、葉奈はささやきを返した。




   
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