恋風
その2 観念の揺らぎ



葉奈は、どこに向かうのか聞かないまま綾乃の後に着いて行った。
駅とは逆方向の道を少し歩き、学校のすぐ近くにある公園へと入ってゆく。

「あれ? 綾乃、見て、伊坂先生がいる」

公園の駐車場に停められたスポーティーな形の黒い車から少し離れた場所で、伊坂がこちらに背を向けて空を見上げていた。

遠目だし、後姿だけなのに、はっきりと伊坂だと分かる。
その着ているスーツは、今日の授業中目にしたものだ。

伊坂は背広を好んで着ている。
スーツ姿の男性が好きな葉奈は、伊坂のネクタイ姿を見るのを授業中の楽しみにしていた。

「翔、お待たせーっ」

伊坂に駆け寄りながらそう呼びかけた綾乃に、葉奈は天地がひっくり返るほど驚いた。

伊坂がくるりと振り返って綾乃を鋭く睨んだ。その睨みを目にして、前進を続けていた葉奈の足が右足を上げたまま固まった。

「綾乃、ひとのこと呼び捨てにするんじゃないっ」
低い良く通る声で、伊坂が不機嫌そうに言った。

「いいじゃん、もう学校の外だしさ。翔の先生面も今日の分は、十分堪能したって」

「お前なぁ。もう雨も上がったぞ。甘えてないでバスで帰れよ」

綾乃が顔だけふいっとこちらを向くと、葉奈においでというように手を振ってきた。
葉奈は把握できない状況と、伊坂の苦々しい声に怯えて、無意識に数歩後じさったところだった。

「葉奈ー、早くおいでよ。伊坂先生が送ってくれるって」

いや、言ってないって。と、青くなった葉奈は、否定して顔の前で手を横に振った。

「佐倉」

「は、はいっ」

伊坂の語気があまりに強かったせいで、葉奈はきをつけの姿勢で返事をした。
そんな自分の反応がひどく情けなくて恥ずかしかった。

そしてまた、伊坂の表情には、なんでお前がここにいるんだという驚きがはっきりと現れていて、葉奈はもの凄くいたたまれない思いがした。

「翔が怒鳴るみたいに呼ぶから、葉奈が怯えちゃったじゃん」

「怯え…。そんなことより、綾乃、なんで佐倉を…」

「どうせふたりとも翔の通り道だから、一緒に送ってもらおうと思ったの。いいでしょ。翔がたったひとりで乗って帰るより、車の存在にありみがたみが増すよ」

綾乃がそう言っている間、迷惑そうに細められた伊坂の目が葉奈に向けられていた。
葉奈は、頬が引きつる思いだった。

「ほんとに呆れるやつだな、お前は。…しかたない送ってやるよ」

葉奈は、文字通り飛び上がった。
こんな迷惑そうな顔までされて、家まで送ってもらうなんてとんでもない。

「いえ、わ、わたしは結構ですから…」
葉奈は、後ろ向きにまた後じさった。

「葉奈、大丈夫だってば。早くこっちおいでよ。翔は口は悪いけど…」

葉奈は首を必死に振ると回れ右をし、そのまま駆け出した。

「佐倉。止まれ」

葉奈の足がぴたりと止まった。葉奈は歯噛みした。
どうして先生の声というものは、こうも生徒を服従させずに置かないのだろう。

「こっちに来い」

命令するような伊坂の言葉には、かなりむっとしたが、葉奈はしぶしぶ従った。

「あーあ」と綾乃がため息のように言い、「なんだ?」と言いながら伊坂が綾乃に向いた。

「なんでもなーい。葉奈」

綾乃が伊坂を指差した。

「わたしの従兄。ママのぉ、お姉ちゃんの息子」

葉奈は、いちおうその言葉に納得した。それでもこの状況からは逃げ出したい。
できることならば、あの柔らかでやさしい眼差しの吉永先生が、綾乃の従兄だったら良かったのにと、勝手なことを思ってしまう。

「それじゃ、行くぞ。ふたりとも車に乗って」

「あーい。ほら、葉奈」

葉奈はいやいや車に近づいていった。
拒否している心と足が、哀しいくらい正直に行動している。

後部座席に乗り込んだ綾乃に続いて乗り込もうとしたら、綾乃に止められた。

「葉奈は前だよ。ふたりして後ろに乗り込んだら、翔に嫌味言われちゃうよ。タクシー料金払えとかなんとか…」

くっくっと喉の奥に押さえ込んだような笑い声が聞こえた。葉奈は思わず伊坂を見た。
ふたりの目が合った。
驚いた葉奈は慌てて視線を外した。

胸になじみのない感覚が広がった。
葉奈はごくりと唾を飲み込み、胸中からざわつきを追い出そうとして息を詰めた。

ありがたいことに、車が走り出してからずっと、車内に静けさが入り込む隙間もないほど、綾乃がしゃべりまくっていた。綾乃の話しに、伊坂と葉奈は相槌を打つだけで事足りた。

「今朝、葉奈、痴漢に遭ったんだって。やっぱ、電車通学は危険だねぇ」

ふいに語られた綾乃の言葉に、葉奈はぎょっとして後ろに振り返った。

「痴漢」と潜められた低い声で伊坂が呟いた。

葉奈は、身体を強張らせて小さくなった。
痴漢に遭った被害者の筈なのに、痴漢に遭った自分が、ものすごく恥ずかしく感じるのはなぜなのだろう。

「もう三回目なんだって。葉奈、痴漢の常習犯に目をつけられたんじゃないのかなぁって、わたしすっごく心配でさ」

「綾乃ってば、もうやめてよ。忘れようとしてるのに」

葉奈がそう言った途端、ものすごい剣幕で伊坂が怒鳴りつけてきた。

「佐倉、忘れるってのは、意味ないし、おかしいだろ。まだ、これからも続くかもしれないんだぞっ」

伊坂が怖かった。悔しかった。それに怒りも湧いた。

伊坂に言われなくてもわかっている。だが電車通学を止められない以上、満員電車を避けて、始発に近い電車に乗るしかない。

それに、わざわざ毎日違う車両に乗り込むという努力はしているのだ。
それでも学校まであと三つという大きな駅で満員電車は度を超えた人間で溢れかえり、赤の他人とぴっちり接触したまま三駅を乗ることになる。
そんな中で、不埒なやつの手のひらが彼女の身体に触れてくる。

「痴漢に遭ってみすみすやられてるなんて…馬鹿じゃないのか」

呆れたようなひどく冷たい声に、葉奈はぐっと奥歯を噛み締めた。

「翔ってば、ひどいよ、なんで葉奈を責めるのよ。悪いのは痴漢のほうじゃん」

葉奈を庇う綾乃の言葉がさらに伊坂の怒りを煽ったのか、伊坂の怒鳴り声はさらに大きくなった。

「責めてるわけじゃない。痴漢の肩持ってるわけでもない。忘れようとしてるなんて、こいつが痴漢行為を許すようなこと言うからだ」

「翔は男だからそういうこと言えるんだよ。すっごい怖いんだよ。それに痴漢の手を掴まえて『なにすんだ』なんて凄めるようなタフな女の子じゃないんだからね、葉奈は」

葉奈は、心にひどい疲れを感じた。
ずっと遣り合っている綾乃と伊坂の言葉などすでに耳に入ってこなかった。

車が停車した。綾乃の家の前だ。

「葉奈のことよろしく頼むから、伊坂先生。いい、彼女のこと、これ以上傷つけないでよ」

綾乃がひどく腹立ちを込めてそう言った。
葉奈は慌ててドアの取っ手を掴んだ

「わ、わたしも降りるっ」

「何言ってんの。葉奈の家、ここからだと送ってもらわない方がましになっちゃうよ」

歯痒そうに綾乃が言った。
葉奈の目から、不覚の涙がぽろりと零れた。

「降りろ、佐倉」
ひどく苛立たしげに伊坂が言った。

「えーっ、翔ってばひど…」

「俺も降りる」

葉奈は急いで車から降りた。
伊坂が車を脇に寄せ、彼もすぐに降りてきた。

葉奈は、ハンカチを捜して制服のポケットをまさぐったが、どこに入れたのか見つからない。まだしつこく溢れてくる涙のせいで、鞄を開けるのに手間取ってしまう。

「葉奈、わたしのハンカチ…えっと…」

綾乃も自分のポケットを捜してくれている様だった。
不自然な格好で抱えていた鞄が腕から抜けて地面に落ち、教科書や小物がバラバラになって転がってしまった。

「あちゃちゃー」と綾乃が叫んだ。

葉奈は、虚脱感に見舞われた。
うまくゆかないときというのは、すべての物事にこうして伝染してゆくものなのだろうか。

すでに座り込んで葉奈の持ち物を拾ってくれている綾乃を見て、葉奈も屈みこもうとしたその時、彼女の目元にハンカチらしきものがあてられた。

「綾乃が拾ってくれる。とにかく涙を拭け」

苛立たしげな声にも、葉奈の心は反応しなかった。
素直に頷くと伊坂のハンカチで涙を拭いた。

「ごめん」

葉奈は驚いて顔を上げた。
伊坂の悔いをたっぷり含んだ瞳に出くわして、葉奈の固定されていたはずの観念がふいにぐらついた。
伊坂という存在は、葉奈の中では教師だ。それはこれまで強い観念で確定されていた。

葉奈は戸惑いに囚われて、伊坂の瞳を見つめたまま、手にしたハンカチを顔の前で浮かしていた。

下瞼に残っていた最後の涙が頬を伝い、伊坂の視線がそれを追ってゆく。

「これで全部かな」

綾乃の声に葉奈は驚いた。彼女の存在が頭から飛んでいた。




   
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