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その20 恋風に吹かれて
そう言えば、夢の中の王子様のふたつめの勘違いとは何だったのだろう?
ベッドの上で目覚めたとき、一番最初にその問いが浮かんだ。
四時間ほどしか寝ていなかったが、葉菜は両腕を伸ばし、すっきりとした目覚めを満喫していた。
まだ六時ちょっと過ぎ。あたりはとても静かだ。
葉奈は、起き上がって大きなあくびをした。
それにしても、リアルな夢だった。
少し不安にもなった。
キスというのは、現実もあんなにとろけそうなほど甘いのだろうか?
それともあれは夢だったから…?
伊坂先生とキスだなんて…思い出すだけで頬が熱い。
葉奈は、「きゃー」と思い切り可愛く叫んでからくすくす笑い出した。
しかし、脱衣所での記憶が蘇り、葉奈のきゃーは本物の叫びになった。
裸を見られたショックが大きすぎて、その場ではまったく意識に上らなかったが、このピンクのひらひらネグリジェ姿まで見られたのだ…
あーー、もう、もう、伊坂先生に顔合わせらんないー
出来ることなら、このまま逃げ帰りたかった。
葉奈は急いで着替え、二階の洗面所で顔を洗った。
「葉奈、もう起きたのか、早いな。ほら、タオル」
洗面所に屈みこんでいた葉奈は、ドキリして顔を濡らしたまま上体を上げた。
手に触れたタオルで顔を拭いて振り向くと、有り得ないほど間近に伊坂が立っていた。
「おはようのキス」
そう言って唇をふさがれた。
唖然とした葉奈の視線の先に、伊坂の瞼とすっきりと伸びたまつげがある。
葉奈は慌てて目を閉じた。
この自然すぎる成り行きのキスは…?
甘かった。確かに甘かった。
夢の中と思っていたキスとほぼ同じく、キスは甘かった。
なんだが身体がほわっと浮いている気分だった。
ぎゅっと抱きしめられている力強い腕の感覚は確かにあるのに、精神がどんどん身体から離れてゆくような気がする。
「毎朝、こうして寝覚めのキスが出来たらいいのに…」
伊坂がふたりの額をコツンとあわせて言った。
「あの、すみませんが…一人身の若き乙女には、目の毒なんですけどぉ…」
葉奈は、その声に驚いて伊坂から身を離した。
「れ、玲香ちゃん、お、おはようございます」
首から上が、ジューッと水蒸気を発しそうなほど熱かった。
「え?葉奈さん、その服…」
「はい?」
戸惑ったような玲香の声に、葉奈は振り向いた。
玲香の指先は、葉奈の着ている制服を指している。
「この制服が、どうかしました?」
「だってそれ、高校の制服ですよ」
まさに、間違えてますよ。という口ぶりだった。
やっと、事態が飲み込めた。
玲香は、葉奈をもっと年上だと思い込んでいたのだろう。
「だってわたし、高校生だから」
「え゛ーーーーーーー
果てがないほど、長い叫びだった。
葉奈の隣にいる伊坂は、妹の勘違いに、楽しんでいるとしか思えない笑みを浮べていた。
「妹さん、わたしと同じ歳だったなんて…」
伊坂家を後にして車庫に向かいながら、ため息を洩らしつつ葉菜は呟くように言った。
朝食の席で、残りの家族と顔を合わせたとき、その場の空気が微妙に揺れた気がした。
伊坂の両親は取り立てて何も言わなかったが、伊坂の兄の聡は、十二分に妹と驚きを分け合っていた。
「だろ。君とあいつが同じ歳だなんて絶対に思えなくて、俺も勘違いしたんだ」
「勘違い?ふたつめの?」
伊坂は車のドアを開けながら「そう」と言い、運転席に乗り込んだ。葉奈も助手席に座った。
「中三だった君を、高三だと思い込んだんだ。結婚式で見かけたときは、ハタチだと思ってた」
「わたし、とってもふけ顔なんですよね」
シートベルトをはめながら、葉奈は肩を落とした。
「ふけ顔? いや、そういうわけじゃない。君はこれからも、ずっとこのままな気がする」
「まさか」
葉奈は声を上げて笑いながら伊坂に顔を向け、彼の真剣な眼差しにドギマギした。
「これからはずっと傍にいて、それを確かめられるんだな…楽しみだ」
伊坂はそう言うと、葉奈の唇を味わい、車庫から車を出した。
ほてった頬に風が欲しくて、葉奈は車の窓を少し開けた。
風が頬にやさしい…
記憶にある、とらえどころのないささやきを、葉奈はまた耳にした。
公園で初めて目にしたときの、伊坂の姿が心に蘇った。
空を仰いでいた伊坂先生。
葉奈は微笑みを浮べた。
もしかするとあの時、彼もこのささやきを耳にしていたのかもしれない。
End
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