恋風
その3 しもべ誕生



綾乃の家の居間のソファに座った葉奈は、居心地の悪さにいたたまれない思いでいた。

彼女の右側には、伊坂がふかふかのラグに直接腰を下ろし、片足だけ立てて座っている。
扱いに困るのではないかと思うくらい長い足だ。

どうせなら、目の前に座ってくれれば良かったのにと、葉奈は思わずにいられなかった。
なんだか、横顔をじっと見られているような感覚に囚われて仕方がなかった。

葉奈は瞳だけ動かしてそっと伊坂を伺い、肩から少し力を抜いた。
伊坂の視線が何を捉えているのかなど分からなかったが、少なくとも葉奈には向いていなかった。

綾乃の家にはちょくちょく遊びに来ていたが、いつだって玄関からまっすぐに綾乃の部屋に直行する。
こうして居間にお邪魔することはほとんどない。

カウンター越しに見える台所で、綾乃が食器を取り出しているのを、落ち着かない気持ちで葉奈は眺めていた。

綾乃が出してくれたコーヒーにミルクだけ入れて一口飲み、葉奈はほっと息をついた。

「おいしい」
カップを唇に寄せたまま、葉奈は一人ごちるように言った。

「でしょ。特別に、葉奈のために入れたんだもん。葉奈、モカが好きだもんね」

葉奈のためという言葉を、綾乃は伊坂に向け、あてつけがましく言った。
コーヒーカップを手にした伊坂は苦笑いしている。

「うん、この酸味、好き」

先ほどの伊坂の発言が、葉奈の心からすべて流れたわけではなかったが、コーヒーの香りに気持ちがいくらか和らいだ。

自分のコーヒーにたっぷりと砂糖とミルクを入れている綾乃を見て、葉奈は微笑んだ。

外出先でコーヒーを飲む時、綾乃は絶対に砂糖を入れるのを我慢する。
お子様に見えるからなのだそうだ。

そんなのは好みの問題で、その我慢にも意味がないと葉奈は思うのだが。

「どうして砂糖無しで飲めるのかなぁ。不思議だよ。葉奈、パフェだって大好きなのに」

「パフェとコーヒーは別の味わい。どっちもおいしいもの。綾乃も無理しないで、自分の嗜好に忠実になればいいのに」

綾乃がぷっと吹き出し、ケラケラと笑い声を上げた。

「葉奈、ひとのこと言えないじゃん」

「何が?」

「だって葉奈、服は自分の好みじゃないものばっかり着てるじゃない。ほんとは、ピンクのひらひらとか大好きなくせにさ」

葉奈はうっと詰まった。
思わず伊坂に向いてしまい、慌てて顔を戻した。

頬が熱かった。
信じられないくらい真っ赤になっているに違いない。

「似合わないんだもん」
葉奈は気まずく呟いた。

「そんなことないって。いつも言ってるじゃん。葉奈、可愛い系、絶対似合うって」

「似合わないって言われたの。もうだいぶ前だけど…」

「えーっ、誰に」

「知らない」

「なに、それ?」

「お兄ちゃんが言ったの。お兄ちゃんの友達が…そう言ってたって」

「兄貴の友達?…そんなの気にする必要ないじゃん」

「自分でも似合わないと思ってたから…」

「えーっ、理不尽だよ。葉奈の乙女心を傷つけたそいつ、仕返ししてやりたーい」

「綾乃、コーヒーお代わり」伊坂が唐突に言った。
綾乃が顔をしかめた。

「えーっ、もうないよ」

「お代わり」

コーヒーカップを顔の前に、ほらほらというように揺すられて、綾乃が吹き出した。

「もうぅ。わがままなんだからぁ」

呆れたように笑いながら綾乃が台所に行ってしまうと、先ほどまでの居心地の悪さが戻ってきた。

コーヒーが無くなると、間が持たなくなりそうで、葉奈は少しずつ少しずつコーヒーを啜った。

伊坂は普段から寡黙なのだろうか?
話しかけてくれればいいのにと葉奈が思ったとき、伊坂が言った。

「…悪かった」

葉奈は伊坂と視線を合わせ、それから彼の謝罪に、迷った挙句小さく頷いた。

「君の気持ちを、もっと思いやって言うべきだった」

「いえ、いいんです。わたしも、伊坂先生のおっしゃること、良く分かってるんです。でも…」

「考えたんだが…」

伊坂がそう言ったところに、コーヒーをなみなみと注いだカップが、ドンと置かれた。

「翔、インスタントだよ」

渋い顔をした伊坂の表情に、葉奈は思わず吹き出した。

「小遣いが欲しいときだけは、めちゃくちゃサービスいいのにな、お前」

「言うほどくれないじゃん」

「お前の母親に言い含められてるんだ。小猿にむやみやたらに餌やらないでくれって」

「小猿ぅー、誰がよっ!」

葉奈は我慢できなくなって、声を上げて笑い出した。そこに伊坂の笑い声も混じった。

「もうぅぅ、葉奈まで笑うなんて、ひどいよー」

そう言いながら綾乃まで笑い出した。
三人が思う様笑って、その笑いが落ち着いたところで、ひどく真面目な顔になった伊坂が言った。

「考えたんだが、明日から、俺の車で学校まで乗せてくことにする」

葉奈と綾乃はふたり同時に「は?」と叫んだ。

「痴漢に遭いたくないだろ? だから俺が…」

「と、とんでもないです。伊坂先生にそんなご迷惑、掛けられません」

「お前、もしかして痴漢に遭いたいのか?」

疑わしげに言われて、葉奈はブルブルと激しく首を振った。

「と、とんでもないです」

「だろ?他に方法あるのか? 両親のどちらかが毎朝学校まで送ってくれるとか…。あるなら言ってみろ」

両親に送り迎えだなんて、とても無理だ。
母親は看護師だし、父親はいま一年の期限付きで海外に単身赴任している。
兄の貴弘はこの春就職し、いまは会社に近い場所にアパートを借りて住んでいる。

「ここに寄って、ついでに綾乃も乗せる」

「えっ、わたしも?えっへっへ。それナイスアイディア。翔、一石…えーっと一、二…」

「何数えてるんだ?」

「だからぁ、痴漢問題解決。葉奈の電車の定期代が浮く。私のバスの定期代も浮く。雨の日も楽チン。で、一石四鳥」

伊坂が軽く首を振った。

「朝はいいけど、帰りは毎日はとても無理だ。俺は帰りがかなり遅くなる日が多いからな」

「帰りは大丈夫ですから。帰りの電車は空いてます…から」

そう言ってしまってから、葉奈は自分の発言に顔をしかめた。
これでは、朝、車に乗せてもらうのを承諾したようなものだ。

「それじゃ、そういうことで決まりだな」

「あの、やっぱり、いいです。伊坂先生にそんなご迷惑…」

「葉奈ってば、やっぱり痴漢に…」

その綾乃の言葉は冗談とわかっていたけれど、葉奈は勢いで「遭いたくないってば」と叫んでしまった。

「そんなに気にするんなら、たっぷりとお礼してもらうから心配するな、佐倉」

「は? お礼?」

葉奈は伊坂の微笑みに、なんとなく恐れを感じた。その目は絶対に何かを企んでいる。

「先生って仕事は、いくらでも用事があるんだ。送り迎えだけで、忠実なしもべがふたりも出来るなら安いもんだ」

「しもべっ」

顔を引きつらせたふたりは同時に叫んだ。




   
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