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その6 自覚
金曜日は、伊坂が手伝いのご褒美に、パフェや夕食をご馳走してくれる。
時間が早ければ、綾乃の家で服を着替えてから行くし、遅くなったときは制服のままで違和感の無い、ファミリーレストランとかに行く。
「今日はファミレスだね」
車に乗り込んで綾乃が言った。
綾乃はファミレスのデザートが大好きだから、なんの文句もないのだ。
「今日の残りの仕事は、どうするんですか?」
デザートのバニラのアイスクリームが口の中で溶けてゆくのを味わい終え、自分の残してきた仕事が気になっていた葉奈は、エスプレッソを飲んでいる伊坂に尋ねた。
「土日、家でやる」
「休みまで、手伝わないよ」
チョコレートパフェのコーンフレークを、シャカシャカとスプーンで突付きながら綾乃が言った。
「ふたりのおかげで残りもそんなにないから、暇々にやるさ」
「葉奈、用事が無ければ、手伝いに行ったげたら」
伊坂に視線を当ててから綾乃が振り返り、口元に笑いを秘めて葉奈に言った。
綾乃に向けられた伊坂の視線がなぜか鋭い。
返す言葉を見つけられずにいる葉奈を見て、伊坂が苦笑した。
「休みまで、拘束するつもりはないから、安心しろ。佐倉」
葉奈と綾乃が鞄を持って立ち上がった時、支払いのために先にレジに向かった伊坂に、いま入って来たばかりの男女取り混ぜた集団が、親しく話しかけた。
葉奈と綾乃は目を見交わし、ゆっくりと近付いて行った。
みな、伊坂のことを先輩と呼んでいる。彼らの服装からして大学の後輩のようだった。
「ここで食事してから、今夜はオールナイトでカラオケやるんです。伊坂先輩も一緒にどうですか?」
派手な化粧の女性がそう言って、伊坂の肩に手を掛けた。
その言葉を不服そうに聞いている茶髪の男に、期待するように瞳を輝かせているおとなしめの女性、愉快そうにしている者など、その反応はさまざまだった。
「伊坂先輩は、カラオケなんかしねぇょ」茶髪の男が唇を尖らせて言った。
「それならなおのこと、初体験、初体験」
伊坂の肩に手を置いていた女性が、はしゃいで伊坂の肩をぽんぽんと叩いた。
その光景に、なぜか葉奈の胸がきゅんと締め付けられ、そんな自分に葉奈はたじろいだ。
「いや、連れがいるし、カラオケにも興味はない」
冷たいほどクールな声で言い切り、伊坂はすっと葉奈たちの方に向きがてら、大きく身を引いた。
肩を叩いていた女性の手がからすかしを食らってすとんと落ちた。
女性はまるで誤魔化しのように笑い声を上げたが、その顔は笑ってなどいなかった。
「連れってどこに?」
この集団の中で一番礼儀正しそうな男性がそう言って、伊坂の視線を追った。
集団の目が葉奈と綾乃に向けられた。
綾乃が葉奈の腕を取って伊坂に近付いていく。
葉奈は出来れば集団とまみえずに、店から出たかったのだが…
「なんだぁ、高校生? それもふたり」眉を寄せて茶髪の男が言った。
「おふたり、伊坂先輩と、どんなお知り合いですか?」と、礼儀正しそうな男性が笑顔で言った。
「私は従妹。こっちは…」
愉快そうに瞳を揺らしている綾乃の言葉の途中で、伊坂が身を乗り出して葉奈の腕を取ってぐっと自分に引寄せた。
勢い、葉奈は伊坂の胸に倒れこんだ。
「こっちは、俺の彼女」
綾乃が「えっ」と叫んだが、集団のどよめきが酷くて誰も聞いていなかった。
葉奈はと言えば、伊坂に肩を抱かれて固まっていただけだった。
「えっ、高校生の…彼女なんですか…」
おとなしそうな女性が驚いた表情で呟くように言い、その顔が酷く翳った。
伊坂に馴れ馴れしかった女性の目が、憎々しげに葉奈を捕らえ、葉奈は震え上がった。
「高校生にしては、ふけてるわね。なんか、わたしよりお姉さんみたい」
意地悪な目で彼女がそう言ったところで、隣にいた数人の男性が慌てて彼女を止めたが、彼女はなおも続けた。
「もしかして、コスプレなんじゃない」
その言葉を聞いて伊坂がふっと笑った。
伊坂の笑いは刺のある女性の言葉より葉奈の心を刺し、彼女の胸は、張り裂けそうなほど痛んだ。
「ひがむのも仕方ないだろうな。歳食った君より、よほど色っぽいからな、葉奈は」
言葉に毒をたっぷりとしみこませて言うと、伊坂は「それじゃ」と片手を上げ、肩を抱いたまま出口へと葉奈をいざない、笑いを堪えながら綾乃が後についてきた。
「嫌な思いさせたな、佐倉、すまない」
外に出てすぐに、伊坂が葉奈に頭を下げてきた。
葉奈は、頭を振った。
ふけているというのは本当だし、過ぎるほど庇ってくれた伊坂のやさしさに葉奈の心はあったかいくらいだった。
「あの厚化粧のひと、性格わるー。翔、なんであんなのと知り合いなのよ」
「どうも俺が所属してたパソコン研究会の連中らしいけど、俺はあいつらのことあんまり覚えてない。話したこともないと思うんだが…」
「それじゃなんで翔のこと覚えてるのよ」
「俺が研究会の部長、やってたからだろ」
「納得」
「伊坂先輩」
呼び声に三人が振り向くと、さきほどの礼儀正しい男性が走り寄ってきたところだった。
彼は深く頭を下げて詫びてきた。
伊坂と二言三言話しをし、彼は葉奈を見て何か言いたそうにしたが、そのまま戻って言った。
ファミレスの入り口のところに、おとなしめの女性が佇んでこちらを見ていた。
葉奈には、彼女は伊坂を見つめていたように思えてならなかった。
走る車の中で、葉奈は自分に否定しつづけていた。
伊坂を特別に意識していること。
意識を認識した途端、葉奈の世界は一変してしまった。
ギアを握る手、その長い指。
すらりとした腿に大きな黒い革靴。
伊坂の肩、彼の首に、ワイシャツの襟、きゅっと締められたネクタイ。
そして、伊坂の顎、頬、口元。
自分の意識に驚愕しながらも、意識の命じるまま順々に彼の身体に視線を這わせていた葉奈は、伊坂の目に到達して、すべての器官が動くのをやめた。
「葉奈、どうしたの?」
背後から綾乃が言った。
彼女の耳はその声を捕らえていたが、葉奈は動けなかった。
伊坂の瞳に魅入られたように目を見開いていた葉奈は、伊坂に鼻の頭を軽く弾かれて我に返った。
「佐倉。どうしんだ?」
葉奈は無言で首を振った。声が出せなかった。
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