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その7 片恋実体験
相手は先生だ。教師なのだ。
伊坂は大人で、自分は…
なんでこんなことになっちゃったんだろう?
葉奈は、ベッドに横向きに転がり胸の辺りを押さえていた。
吐き気をもよおすドロドロとしたものが胸の中に湧き、どうやっても取り除けなかった。
無駄と判っていてもいたたまれず、胸をかきむしってしまう。
恋とはこんなものなのだったのだろうか?
こんな不快感を発生させるものなのに、どうしてみんな恋を求めるのだ?
葉奈はその理由に突然気づいて、ぎゅっと目を閉じた。
そうか、一方通行の恋だからだ。
双方の恋心が溶け合った時だけ、恋は甘く、幸せと結びついたものとなるのだ。
なんで伊坂先生に…恋なんか。
出来れば、すべてを無かったことにしたかった。
今日ファミレスに行かなければ、気づかずに済んだかも知れない…そんなことまで本気で考えてしまう。
友紀と理穂も、波根と神田に対して、こんな苦しい思いを胸に秘めているのだろうか?
葉奈は、自分に呆れてため息をついた。
人の思いがどんなものかなんて、わかるはずがない。考えて比べることなど無意味だ。
どんな動作もかったるく、葉奈はベッドに転がったままでいたが、片恋に苦しめられながら過ごす時間は耐え難かった。
伊坂の車から降りて、制服も着替えず自分のベッドに転がった。
着替えなければと、思う間もあるけれど、できればこのまま眠ってしまいたかった。
朝を迎えたら、この思いがきれいさっぱり消えていてくれればいいのに…
制服のポケットで着信の曲が流れ出した。
いつもはウキウキするはずのテンポのいい曲が、いまの葉奈にはひどく癇に障る。
電話には出たくなかったが、その曲を聴き続けることが堪らず、葉奈は電話に出た。
「佐倉。俺だけど…」
今、一番聞きたくない声がした。葉奈はきつく目を瞑った。
「佐倉?」
「はい」
葉奈は、唇を噛んだ。ひどく固い声で答えてしまった。
「どうした? 何かあったのか?」
心配そうな伊坂の声に拒否反応を起こして、葉奈の胸のドロドロはさらに膨れ上がった。
ありました。先生のおかげで、わたしの人生最悪です。
葉奈は、この胸のドロドロ全てを、伊坂に投げつけてやりたかった。
「葉奈?…あ、すまない」
伊坂が気まずげに謝り、間をおかずに続けた。
「あの、飼ってるネコが…」
「は?」
クエスチョンマークが頭に浮かんだおかげで、胸のドロドロが縮んで急に楽になった。
葉奈は無意識にほっとして胸をさすった。
「だから、…その…いやいいんだ。すべて忘れてくれ」
「あの、なんのことか…」
「そんなことより」と、これまでの会話をすべて打ち消すような語気で伊坂が言い、すぐに後を続けた。
「今夜はひとりなんだろう。戸締りはちゃんとしたのか?」
「あ…、たぶん、だい…」
葉奈の言葉の途中で、伊坂の説教が始まった。
「たぶん? たぶんとは何だ」
伊坂の声の大きさに、葉奈は少し携帯を遠ざけた。
「いまお前は家にひとりなんだぞ。家の鍵がすべてちゃんと掛かってるか、いますぐ調べろ」
たしかに、葉奈はひとりだった。母親は夜勤でいない。
今日の別れ際、伊坂に聞かれて、母は夜勤でいないと答えたのだった。
「あの、それじゃ調べてきますから…これで」
「このまま行け」
「はい?」
「このまま調べに行け」
何か言い返そうと思ったが、伊坂が心配してくれているのだからと思って、葉奈は携帯を持って家中の鍵を確認して歩いた。
「終わりました」
「よし。それじゃ、気をつけてな。何かあったら電話して来いよ。いいな佐倉」
伊坂の言葉に対して、捻くれた思いが、胸にむくむく湧き上がってきた。
「泥棒とかが押し入ってきたら、真夜中の二時とか三時とかでもいいんですか?」
何事か起きるはずなどないと思っている葉奈はふざけて言った。
葉奈の言い方にかちんと来たのか、伊坂が黙り込んだ。
沈黙に気まずさが湧き、葉奈は口にしたことを後悔した。
「あの、先生」
一呼吸置いてから伊坂が「ああ」と言った。
「何時でもいいから、俺に電話して来い。助けに行く。…おやすみ、佐倉」
感情の無い淡々とした声だった。なのに、葉奈の胸が震えた。
携帯を見つめたまま、葉奈は長いこと立ち竦んでいた。
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