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その8 嘘から出たデート
夕方、睡眠を十分に取った母は、顔を洗ってすっきりした表情で、居間に入ってきた。
「今日は伊坂君、用事でもあったの?」
開口一番そう問われて、ノートパソコンをいじっていた葉奈は、きょとんとして母に振り向いた。
「さあ?」
「さあって、葉奈ってば。伊坂君とうまくいってないの?」」
「どうして?」
「休みの日にデートもしなければ、彼氏の動向も知らないなんて…ありえないわよ?」
葉奈は、見せ掛けだけ笑顔を浮べて、この状況をどうしたものか考えていた。
言葉はよく考えてから…という伊坂の言葉がまた浮かんだ。
「もちろん、うまくいってるわ。明日はデートすることに…なってるし」
思わず口から出たでまかせに、冷や汗が吹き出た。
「なんだそうなの?うーん、それじゃ、デートの帰り夕食食べてってもらうから。伊坂君にそう言っといて、いいわね葉奈」
「え、でも、せ…い…翔…の、都合もあるだろうし」
伊坂の名前を呼び捨てにするなどというだいそれたことをしでかし、葉奈の顔はかっと燃えた。
「聞いてみなきゃわかんないじゃないの」
母は赤くなった葉奈を誤解したらしく、苦笑しつつそういうと、家の電話に歩み寄った。
ぽぽぽぽぽと、リズム良くボタンを押す様子を、葉奈は唖然として見つめてしまった。
まさか…まさか…
「こちら佐倉と申しますけれど、伊坂様のお宅でしょうか?…あの、翔さんはいまご在宅でしょうか?…はい、お願いいたします」
にこやかに笑みを浮べていた母が、ふいに葉奈に向いた。
顔をこわばらせている娘を目にして母親は眉を潜めた。
「葉奈、どう…あ、伊坂君? 佐倉です。…ええ、なかなか遊びに来てくれないから、こちらからお誘いしようと思って。…ええ、明日なんてどうかしら、デートの帰りに、うちで夕食食べていってちょうだいよ」
葉奈は息が詰まって思わず胸を押さえた。
一瞬、逃げ出そうかと思ったが、やはりそれは出来ないと思い直し、抜き差しならないこの状況に泣き笑いした。
「…まあ、そう。はい、楽しみにしてるわね、何か好物とか…そう、じゃそうするわ。それじゃ…あっ、葉奈に代わりましょうか?…ええ、ちょっと待ってね」
にこやかに母が受話器を差し出し、強いためらいをみせている娘に、「何、照れてるのよ。ほら」と、くすくす笑う。
照れてるわけじゃないのだよ、母。
葉奈は受話器を受け取って、恐る恐る耳に当てた。
「葉奈?君の彼氏の翔だけど…明日デートなんだって? 誰と?」
葉奈は黙り込んだ。
だが、じっとこちらを見つめている母の視線に気づくと、こほんと咳をし、母の視界から逃れるように後ろを向いた。
「あの…」
「もちろん俺だよな?」
葉奈はこくりと唾を飲み込み、身を縮めて、掠れた小さな声で「はい」と呟いた。
「朝十時に迎えに行くから」
「えっ、はぁ、あの…」
「それで、ふたりして仲良く…」
「仲良く?」
「残りの仕事の片付けでもするかな」
「ああ、それはいいですね」晴々とした声で葉奈は言った。
「いいのか?」
「は…?」
「まったく、冗談真に受けて納得するなよ。デートなんだぞ。そんなんじゃ、良くないに決まってるだろ」
「そ、そうですか?」
「明日の晩、君の母親に今日は楽しかった?って聞かれて、ふたりしてなんて言うつもりだ。仕事してましたっていうのか?お前、そう言えるのか?」
「い、いえ」
「言えないだろ?」
「その通りです」
「わかればいいんだ。きちんとしたデートしてこそ、話に真実味が出るんだ。明日は、デートらしい服着ろよ。間違っても制服なんて着るなよ」
「制服はさすがに…」
「だから、冗談だろ」
「す、すみません」
「まあ、いい。それじゃ、明日な」
電話を切った葉奈は、長いため息をついた。ひどく疲れた。
伊坂先生とデート…
めまいがした。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
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