恋風
その9 花びらに…



伊坂が来る予定の十五分前には、葉奈は玄関に出て待っていた。
家の中にいると落ち着けなかったし、玄関の上がり口に置いてある姿見で自分の全身を見てしまうと、着ている服に自信がなくなってしまいそうな気がした。

昨夜はなかなか眠れず、今朝は六時に目が覚めた。
睡眠をあまり取っていないのに、普通でなく頭が冴えている。

手にしたショルダーバッグの紐を、くるくる撒いたあげくもみくしゃにしている自分に気づいて、葉奈はため息をつき、バッグを肩にかけた。

平常心平常心と葉奈は心の中で繰り返した。
だが、繰り返せば繰り返すほど、平常心は手の届かないところに退いてゆくようだった。

母は、休日をたっぷりと楽しむために、すでに出掛けて行った。
まず美容院でカットしてもらい、友人の家に遊びに行き、最後はデパートで買い物をして帰ってくると、朝ごはんを食べながら今日一日のスケジュールを発表してくれた。

携帯を見て時刻を確かめた葉奈は、またため息をついた。まだ時間まで十分ある。

早く、デートが開始されて欲しかった。
胸の中がもやもやしてたまらない。

恋心を自覚した今、葉奈には自分がわからなくなっていた。
きっと、母や綾乃の方が、的確にいまの葉奈を理解できるのかもしれない。

伊坂に逢いたくなかった。
自分に問うと、逢いたい気持ちより、逢いたくない気持ちのほうが強いのだ。

恋をして、恋する人に逢いたくないとは、いったいどういうことなのだろう?
腑に落ちなかった。

葉奈は、玄関脇に咲いているコスモスの花をじっと見つめた。

「逢いたい、逢いたくない…」

葉奈は、微かな風に揺れる花びらの一枚一枚に視線を当てながら口の中でぼそぼそと呟く。
花びらを二周回って、やっと自分の愚かさに気がついた。

葉奈は赤面し、指先にぐっと力を入れて花の茎を摘んだ。
けれど手折ってしまうことに気が引けて、今度は初めのひとつをきっちりと頭に入れて、ひとさし指でひとつひとつ指しながら花占いを始めようとしたそのとき、ふとひとつの疑問が湧いた。

伊坂先生に、恋人はいないのだろうか?

嘘から現実になったとはいえ、恋人なるものがいるならば、葉奈とデートに出かけるなどということはしないはずだ。
でも、好きなひとは…

「いる。いない。いる。いない。…」

葉奈は、こんな占いを始めた自分を罵った。
花びらは「いる」の言葉とともに終わってしまった。
心が惨めで、涙がじわりと湧いてきた。

「おい。佐倉、俺の存在、いい加減気づいてくれよ」

葉奈はコスモスの茎をパッと指から離して飛び上がった。
伊坂が門に両腕を掛けて、呆れ顔でこちらを見ていた。

葉奈の心臓がまた跳ねた。
今日の伊坂は、黒っぽいスリムなズボンに生成り色のシャツを着ていた。
いつもは櫛を通して整えている髪も、今日は無造作に前髪を垂らしている。

心臓が耐え切れないほどバクバクと鼓動を強めてゆく。

葉奈は伊坂を見つめていられずに視線を落とした。
その先に伊坂の足元があり、葉奈は、何もかもを諦めて瞳を閉じた。
伊坂の無機質なはずの靴まで、ありえないほど特別に見えた。

カシャッと音がして、葉奈は視線を上げた。

「デジカメ、いいだろう。新製品、買ったばかりなんだ」

伊坂が、手にしている名刺サイズの四角いものを振りながら言った。
そういえば、花びらを夢中で見つめていたときも、この音がしたような…

「いつからそこにいたんですか?」

「うん?いつって…。佐倉が、コスモスを睨みつけてるあたりかな」

「に、睨んでなんていません」
思わず反論したものの、葉奈は急激に熱くなってゆく頬を隠して俯いた。

「佐倉、そろそろ行こう。時間通りに行かないと、綾乃がふてくされると面倒だからな」

「えっ、綾乃も一緒?」
葉奈は思わずそう叫んでしまい。はっとして口を引き結んだ。

「ふたりきりの方が良かった。…と、いま聞こえたぞ?」
からかうように伊坂が言った。

「そんなこと…ただ…」

伊坂が表情から笑いを消した。

「ただ…?」

葉奈は伊坂の顔を直視できなかった。
何気なく見えるように、通りの向こうに視線を向け、伊坂から顔を背けた。

「そう思い込んでたから…」

「佐倉」

「はい」

「似合ってるぞ、その服。行くぞ」

伊坂は言葉が終わらぬうちに、踵を返して車へと歩んでゆく。
自分の服を改めて見つめ、葉奈は俯いて、湧き上がった笑みと嬉しさを隠した。





恋を知るとはこういうことか…

トリプルデートの帰りの車の中、葉奈は諦め顔で得心していた。

心とは、なんて不便なものなのだろう。
いまの葉奈は、まるで心が自分の手元から離れてしまったような心もとなさを感じる。

旋回して浮上し、天国を垣間見て、地に落ちる。
その経過に、葉奈自身はなんの抵抗も出来ない。
けれど心が傷つき、痛みを知るのは葉奈なのだ。

なんだかなぁ…

これ以上ないほど、理不尽な気がした。

葉奈は、喜びと辛さを、心の中でそっと天秤にかけた。
辛さの過度な重みに、喜びが吹っ飛んだ。

やっぱ、理不尽。

「何、ぶつぶつ言ってるんだ。着いたぞ」

顔を上げた葉奈は、自分の家の玄関を視野に入れ、首を回して伊坂に視線を当てた。

「…俺、何かしたか?」

なんのことだか分からなかった。黙っていると伊坂が続けた。

「睨まれるようなことした覚え…ないけど」

葉奈はハッとし、慌てて眉間を弛めた。

「今日、楽しくなかったのか?」

「もちろん、楽しかったです」

疑問を投げかけている伊坂の表情に、葉奈は力を込めて肯定した。

もちろん、楽しかった。
久しぶりの…動物園だったし。

ペンギンは変わらず可愛かったし…
小憎たらしい仕草をして挑発してくるゴリラと綾乃の対決には、お腹がよじれるほど笑ったし…

今日一日、伊坂先生と同じ時を過ごして…涙が出るほど、恋心が深まったし…

車から降りながら、葉奈は無意識に、膨れ上がった胸から息を吐き出していた。

その切なそうなため息を、伊坂が気難しい顔で分析しているとも知らずに。




   
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