恋風

クリスマスバージョン
その10 人生の苦味



華やかなショーも幕を閉じ、伊坂とともに葉奈は舞台裏に下がった。
綾乃と吉永、聡と玲香も、違う入り口から裏へとやってきた。

ショーの成功を喜び合う声が、あちこちで飛び交う。
モデルたちや、裏で頑張っていたひとたちが、お互いをねぎらう姿。

その心動かされる場面を前にして、いつもの葉奈ならば感動して目を潤ませたことだろう。

舞台に上がっていた間は、伊坂に救われて自分を取り戻せ、安堵だけを感じていたけれど、舞台裏に戻ってきた途端、自分の失態を冷静に見つめ、葉奈は恥ずかしくてみなに合わせる顔がなかった。
とくに更紗には申し訳なくてたまらなかった。

「素晴らしかったわ。あなた方、良くやってくださったわ。おかげで素晴らしいショーになったわ」

思ってもなかった更紗の嬉しげな言葉に驚いて、葉奈は顔を上げた。

「で、でも…わたし…」

苦しげな葉奈の表情に、更紗がやさしく微笑みながら肩を抱いてきた。

「あがってしまったわね。でも、そんなことはどうでもいいのよ。とても素敵だったわ。あなた自身には想像もつかないくらい、見ているものにはね」

「ほんとに…ですか?」

葉奈はどうしても素直に受け取れず、更紗に聞き返した。

「ええ。演出を考えた主人もきっと大喜びしているわ。彼にはあとでご紹介するわね」

「叔父様、来てらっしゃるの?」玲香が嬉しげに尋ねた。

「ええ。彼のお気に入りの若い方を数人お呼びしていて、今日をずいぶんと楽しみにしていたようだわ」

「叔父様、大好き。とっても面白くってやさしいんだもの。明日のパーティーにはふたりしていらっしゃるんでしょ?」

「ええ。行かないとあなた方のお父様がご機嫌を損ねてしまうものね」と、更紗はくすくす笑う。

「親父は、強引だからな。ところでわたしはこれで失礼するよ。明日は仕事をさせてもらえないから、今日中に片付けてしまわないと」

聡はそう言うや、みなに機敏に頭を下げ、部屋を出てゆこうとして踵を返した。

「兄さん食事を終えてからにしろよ。働き過ぎだぞ。少しは人生を楽しめよ」

数歩歩いた兄の背中に伊坂がそう声を掛けると、聡が苦笑しながら振り向いた。

「一年前のお前に聞かせたいな、その言葉」

伊坂は眉をあげて聡に応え、葉奈を見つめてきた。

「俺もやつに聞かせてやりたいよ。望みは…叶うぞってね」

「やはり、ハナはお前の福の神か?」

葉奈は会話の意味が分からず首を捻った。

「わたし…福の神?」

「いや、ハナ違いだ。福の神は、我が家のハナのことですよ」

「ああ。あの…」葉奈は言葉につまった。

あのハナにはとんでもなくやられてばかりだ。あれがすべて偶然とはとても思えなかった。
ほんとうに普通のネコなのだろうかと疑いたくなる。

「さあ、ディナーの準備が整いつつあるわ。聡さんも、参加ということでよろしいわね。パートナーがいないと玲香さんも可哀相でしょ?三人とも急いで着替えていらっしゃい」

更紗に背中を押されるようにして、葉奈たちは着替えの控え室に入った。
先ほど着替えをした場所ではなく、みんな同じ部屋だった。
だだっ広い部屋では、すでにたくさんのモデル達が着替えをしていた。

特殊なコルセットを付けられていた葉奈は、それから自由になるのに時間が掛かったこともあり、ふたりよりも支度を終えるのが遅れてしまった。

化粧を落とし、メイクをしてくれた同じ人に薄い化粧を施してもらい終えた綾乃と玲香は、葉奈に先に行くねと声を掛け、会場に戻ってしまった。

遅れた葉奈も支度が出来、メイクのひとに礼を言って立ち上がると、急いでみんなのところに戻ろうと部屋から出た。

「ちょっと」

葉奈は、彼女を追って部屋から出てきたらしい女性に呼び止められて、立ち止まった。

「は、はい」

「調子に乗らないでよね」

「えっ?」

「今回、あんたがとりを務めたのは、更紗さんのお遊びなのよ。舞台であがって、あんなみっともない姿さらしたくせに…成功したのは自分のおかげみたいに…まったくおめでたいわ。おこがましすぎるわよ。翔様に助けられて事なきを得ただけのくせに…」

「あ…すみません」葉奈は弱々しく答えた。

毒のある言葉のひとつひとつが、胸を鋭くえぐるようだった。

「久しぶりに舞台復帰された翔様にあんなご迷惑まで掛けて、ただで済むと思ってるの、あんた」

相手の怒りの強さに、全身が竦んで葉奈は身動きすることも言葉を発することも出来なかった。
足首のあたりが小さく震え始め、その震えが大きくなりすぎて倒れたりしないよう、葉奈は両足に精一杯の力を入れた。

「だいたい翔様のお相手は美智歌さんって決まってるのよ。とりも美智歌さんに決まってるの。ふたりは恋人同士なんだからね。あんたなんかが割り込んでくること事態お笑いだわ。あんたみたいなど素人が大きな顔してしゃしゃり出てきて、むかついて…」

「やめなさい!」

鋭い叱責の声が飛んできた。
女性の顔から怒りが消え、そこに怖れが浮かんだ。

「美智歌さん、で、でも」

「更紗さんに、このことが知られたら、あなた困ったことになりかねないわよ」

「そ、そんな…でも」

「でもは、これ以上聞きたくないわ。もう行きなさい」

美智歌という女性の言葉にうなだれたものの、不満そうな顔に憎しみを加えた表情で、彼女は葉奈をもういちどきつく睨み、先ほどの着替えの部屋に入ってしまった。

心臓がどくどくと跳ね続けていた葉奈は、苦しくなって胸を押さえた。

彼女がいなくなったことで力が抜けたからなのか、身体がガクガクと大きく震えだし、葉奈はよろめいた。

「大丈夫?」

美智歌は真っ青になった葉奈の顔を見て、ひどく心配そうに顔を歪めた。

「こっちに、休めるところがあるの。行きましょう」

「いや!」

美智歌が葉奈を抱えるように手を添えて言ったが、葉奈は反射的にそれに抗った。

「葉奈?」

伊坂の声に葉奈は顔を上げた。

「どうしたんだ?葉奈、気分が悪いのか?」

「ごめんなさい。翔君」

「美智歌?なんで?彼女はどうしたんだ?」

「仲間のひとりが…彼女にひどいことを…ごめんなさい」

伊坂の瞳が、危険なほど鋭くなった。

「はっきりと聞かせて欲しいな、美智歌。誰がやった?」

凍るように冷たい声だった。

「翔君、報復するでしょ。だから言えないわ」

「…わかった。そいつにはっきりと伝えてくれ。絶対に…許さないってね」

「いいんです。本当のことを言われただけなんです。ごめんなさい、わたし…」

言われたことは、葉奈が思っていたことと同じようなものだった。
他人の口から言葉として繰り返されたことで、葉奈の中でさらにその思いが強くなった。

「彼女が言ったことはね…」

美智歌が葉奈に向けて何か言い掛けたが、伊坂はそれを制した。

「もういい。モデル仲間には、二度と葉奈に近寄るなって警告しとけ。次は、ただじゃ置かないってな」

「…わかったわ」

美智歌が真顔で頷いた。





伊坂は葉奈を連れ、会場とは別の部屋に入った。

「座って。ここには誰も来ないから」

椅子に座り、葉奈は両手で顔を覆った。

言葉にひどく怯えたこと、舞台でのこと…。
自分の弱さに、恥ずかしさがどうしようもなく湧き上がり、葉奈は伊坂に顔を見られたくなかった。

「先生、ごめんなさい。迷惑ばかり掛けてしまって。わたし、恥ずかしくて」

「迷惑?葉奈、落ち着いて、何を謝ってるんだ?」

「だって、あがって動けなくなっちゃって、先生に助けてもらって…。わたし、どうしてこんなに弱いんだろう。自分が嫌になる」

伊坂がそっと葉奈の肩を抱いてきた。
そして少しずつ抱き締める腕に力を入れてゆく。

「自分を責める必要なんかないんだ。もともと更紗叔母に強制的にやらされたことなんだから」

「でも、引き受けたんです。引き受けた以上、責任はわたしにあります」

「君は自分を責めすぎだ」

「でも、責められるようなことをしちゃったんです」

「もっと視野を大きくして見るようにしたほうがいい。君が思うほど…」

「でも、あのひとは…あ…」

葉奈は言いかけて口をつぐんだ。
あんな言葉を伊坂に聞かせるなんて、絶対に嫌だ。

「何を言われた?」

「…忘れました」

「そう。なら、なんで君は自分を責め続けてるんだ?責める理由を忘れてるのに?」

「あのひとに言われたことは忘れたけど、自分の失態はちゃんと覚えてます」

むっとして言い返した葉奈を見て、伊坂が笑い出した。

「少し元気が戻ったみたいだな。良かった」

伊坂が葉奈をぎゅっと抱き締めた。

毒のある言葉が脳裏に蘇りはじめ、葉奈は思い出すまいとして無意識に頭を振った。

「どうした?」

伊坂の問いかけに、葉奈は小さく首を振って彼の胸に頬を寄せた。

抗おうとすればするほど、まざまざと蘇ってくる言葉に、葉奈はぐっと奥歯を噛んだ。

美智歌という女性は、とてもきれいなひとだった。
そして伊坂とのこと…

葉奈は宙を見据えて、いま起こったことを胸に受け入れようとした。

いま、伊坂と付き合っているのは葉奈なのだ。

付き合っていたという言葉が本当か嘘かも葉奈には分からないし、過去は過去でしかない。
彼女は自分にそう言い聞かせた。

宮部と伊坂が付き合っていたとの情報に翻弄されてひどく落ち込み、伊坂にみっともない姿をさらしてしまったときも、いまと同じほど辛かった。

前と同じに、この拒否したくなるような感情も、すべて自分の中に受け入れて、最後には乗り越えられるはずだ。

恋は苦しい。
けれど、その苦しみを味わっても、伊坂とともにいたい。

葉奈は顔を上げると、気遣うように葉奈を見つめている伊坂の肩に両手を掛けた。

「葉奈」

葉奈は、伊坂のぬくもりを求めるように、そっとふたりの唇を重ねた。




   
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