|
その13 ハナの任務
「昨日は、わたしの同僚が、ひどいことを口にして、本当にごめんなさい」
「いえ、本当のことですから」
「いいえ、本当のことではないわ。彼女はあなたを妬んだの。舞台のあなたがあまりにまばゆかったから」
「まばゆい?」
葉奈は美智歌の言葉に眉をひそめた。美智歌がゆっくりと頷いた。
「天性のものってあるわ。どれだけ努力しても得られないもの。それをあなたは持っている。更紗さんはそれに気づいたのね」
美智歌の言葉は、あまりに受け入れがたく葉奈の表層意識の上を、空回りしながらすべってゆく。
地味顔でふけている自分を、葉奈は良く知っている。
伊坂が彼女を好きになってくれたことすら、いまだに信じられないのだ。
「彼女、わたしと翔君が付き合っていると言ったけど、あれはもちろんでまかせよ。翔君とわたしは高校で、生徒会の役員を一緒に務めたの。彼とはその時からの友達なだけ」
こちらの言葉は素直に受け取れた。葉奈は頷いた。感謝も湧いた。
葉奈が気にしていると分かっていて、わざわざ話しに来てくれたのだろう。
「翔君は、高校のころもそうだし、とにかく女の子たちにとてもつれなかったわ。騒がしく彼を取り巻いてくる子には、とくに。そんなだから、モデル仲間の中でわたしだけに、彼が親しく話し掛けて来るから、妙な誤解を植えつけてしまったみたい」
葉奈はまた頷いた。
美智歌が首を傾げて葉奈をじっと見た。
「わたし、とても好きなひとがいるの。いま彼は海外にいるんだけど。…生徒会では副会長を務めてたひと。翔君はね、会長だったのよ、知っていて?」
「いいえ」葉奈は首を横に振った。
「あの、もしかして、宮部先生をご存知なんですか?」
葉奈はさんざん迷った挙句尋ねた。
「優香?ええ。もちろん知ってるわ。ああ、やっぱりあなた、翔君が勤めてる学校の方なのね」
「はい」
「優香も一緒、生徒会役員だったのよ。彼女も翔君と仲がいいから…もしかして彼女のことも誤解した?」
葉奈は真っ赤になった。赤くなった葉奈をみて、美智歌が微笑んだ。
「優香はその頃から、他に好きなひとがいたの。…あなたも知っているひとよ」
「わたしが…?」
「ええ」
美智歌は愉快そうに頷いた。
「こんなことを同僚の方に話したって知られたら、優香に怒られちゃうわ。彼女には内緒にしといてね」
同僚?
初めきょとんとしたものの、なんのことかすぐに気づいた。
こういう勘違いには、残念ながらとても慣れている。
「ひとつ聞いてもいいかしら?」
訂正しようと口を開いた葉奈は、美智歌に先を越されて頷いた。
「あなたが翔君に初めて会ったのはいつ?」
「…二年半、くらい前ですけど」
「やっぱり」
美智歌はそういうと、くすくす笑い出した。
「ごめんなさい。彼、そのころは、黒ブチの眼鏡かけてたでしょ?」
「そうでしたね」葉奈は思い出して微笑んだ。
眼鏡の伊坂は、知的でとても素敵だった。
「あれね、女避けだったのよ。知ってた?彼、わざとダサい眼鏡掛けてたの」
「は?」
美智歌の意外な言葉に、葉奈は呆気に取られ、目をしばたたいた。
ダサい…眼鏡?
「彼がモデルをきっばりやめたのは、きっとあなたが原因ね」
葉奈は返事をしなかった。
話の展開が、この場にいたたまれない方向に向いてゆく危機感を覚え、いますぐこの場から消えたくなった。
処理し終えていない情報を、いくつも抱え込んでもいる。
「あの。伊坂先生がイライラ…え、えーと、待ってると思うので、わたしこれで…」
そう言うと、葉奈はちょこんと頭を下げた。
「長話が過ぎたみたいね。またお会いしましょう。優香に会ったら…」
葉奈はハッとした。
「あ、あの。宮部先生には、わたしと伊坂先生が付き合っていることを、黙っていていただけませんか?」
「あら、学校内は先生同士の恋愛を禁止してるの?でも大丈夫よ。優香はおしゃべりじゃないから」
「こ、困るんです。お願いします。宮部先生には…」
「…何か訳があるのね?分かったわ。彼女にも誰にも、けして他言しないわ」
「ありがとうこざいます」
「同じ歳なんだから、そんなに…同じ歳…よね?」
「あの、わたし…」
葉奈は、足元にふいにぬくもりを感じ、ぎょっとして下に向いた。
ハナが葉奈を見上げていた。
「にゃあ」
「ハナ?」
葉奈の関心を引いたと認めるや否や、ハナは廊下をすばやい動きで三メートルほど先に行き、またこちらに振り向いた。
立ち止まったまま急かす様に前足をくいくいと動かしているハナは、まるで警告するような響きを込めて「にゃあ」と鋭く鳴いた。
「あの、わたし失礼します」
葉奈は美智歌に向き、早口で言った。
なんだかひどく胸騒ぎがした。
美智歌に頭を下げると、葉奈はハナを追い越す勢いで走り出した。
|
|