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その5 惚れた弱み
夕食の席で、葉奈はやっと母と伊坂の会話の謎を教えてもらった。
今夜は葉奈の家で夕食を食べることになっていたふたりは、玲香を家に連れて帰ると彼女と荷物を降ろし、そのまま葉奈の家へと戻ったのだ。
「お父さんのところに…」
「ええ、年末年始だけど、あなたは伊坂君が引き受けてくれるっていうから」
「何日でも、喜んで引き受けますよ」
「まあ、伊坂君ってば、葉奈をこのままお嫁にもらっちゃいそうな勢いね」
「僕はそれでも構いませんよ」
「もうマジな顔して冗談を言うんだから、本気に受け取っちゃうわよ」
母のテンションは、天井知らずに上がってゆくようだ。
そんな母を見つめ、葉奈はおかしさと微量の憐憫を感じていた。
母は父にとても会いたかったのだ。なのに、その気持ちをぐっと我慢していたのに違いない。
おしゃべりに夢中でなかなか進まない箸にようやく食べ物をつまみ、笑み零れる口に運びつつ、麻子は頭の中で回想している様子で、また弾むように話し始めた。
「先月新しい子がふたり入って、仕事に余裕が出来たの。だから、もしかしたら休めるかなって…。そのことを、この間、伊坂君に話したのよ」
「えっ、いつ?」
「先週一緒に食事に行った帰りよ」
時折、伊坂は佐倉家で夕食を食べることがある。
そのお礼にと、先週、伊坂が素敵なレストランでふたりにご馳走してくれたのだ。
あの日は、その前日、課題が多くてあまり寝ていなかったせいで、葉奈は帰る車の中でつい寝入ってしまった。
ふと目が覚めると伊坂の腕の中で、それに気づいたものの葉奈は寝たふりを続け、車から居間のソファまで運んでもらった。
あれほど綾乃を羨ましがったお姫様抱っこ体験。
伊坂は何も言わなかったが、たぶん寝たふりの葉奈に、彼は気づいていたのではないかと思えた。
ソファに寝かされ上掛けを掛けてもらい、いまさら目を開けられなくなって、そしたら間抜けなことに、そのまま本当に眠りこけてしまったのだ。
次に目を開けた時には、伊坂は帰った後で、ものすごくガッカリした。
「それでいい?葉奈、行ってきても」
間抜けな過去の自分に恥じ入っていたところに、母の声が割り込み、葉奈はハッとして意識をこの場に戻した。
「もちろんいいわよ。それで、いつからいつまでなの?」
母は申し訳なさそうに顔をしかめたが、その顔からは喜びが溢れている。
「今日職場のみんなに話したら、せっかく高いお金払って行くんだし、これまでお休みらしいお休み取ったことないんだから、お正月までゆっくりしてくればいいって言ってくれて…」
「へぇー、それで?」
「二十三日から四日まで…葉奈、いい?」
「そんなにお休みもらえたの?」
「でしょ。もうわたしも驚いちゃって。感激してみんなの前で…泣いちゃった」
照れくささを含んだ冗談めかした言葉とは裏腹に、母の嬉しさが伝わってきて、葉奈の胸がジーンとした。
「みんなして相談して…お休みをやりくりしてくれたらしいの」
ほほ笑んだ目に涙が浮かんでいる。葉奈まで涙が出てきた。
「良かったね、お母さん」
麻子は無言で何度も頷いた。
しばらく食事をしながらの、じんわりしたやさしい時が過ぎた。
「ごめんなさいね、葉奈。一緒に行けると良かったんだけど、あまりに急だったから。あなたはパスポート持ってないから…」
食事の片づけを終え、デザートに柿をむいてくれながら、麻子が隣で紅茶を入れている葉奈に言った。
「わたしはいいの、それよりお母さんが持ってて良かったわ。お父さんが行くときにもしかしてって、一緒に取っておいて良かったわね」
「もしもの時があるからって、取ったけど。今考えたら葉奈のも取っておくべきだったわ。お父さんも葉奈が一緒ならもっと喜んだのに」
「夫婦水入らずの邪魔はしないわ」葉奈は苦笑しつつ言った。
「葉奈ってば。でも、伊坂君がいてくれてよかったわ」
たしかに、伊坂がいなければ母は父のところに行こうとは考えもしなかったに違いない。
「だけど、伊坂君のご家族に長いことご迷惑掛けてしまうわね」
寛いだ様子でソファに座り、持参したサイエンス雑誌に目を通していた伊坂が、顔を上げて微笑んだ。
「うちは構いませんよ。葉奈がしばらく一緒に暮らすと知ったら、母も玲香も喜びます」
「えっ、わたし…?」
葉奈は驚いた。
どうやらふたりの間ですでに、葉奈は伊坂の家に泊まり込むことに決定しているらしい。
「冬休みに入るし、葉奈がいる間は、綾乃も泊まりに来るって言ってる」
「綾乃も?綾乃の両親もクリスマスにいらっしゃるの?」
「いや、クリスマスには、夫婦で旅行に行くらしい」
綾乃も一緒と聞いて、葉奈は俄然楽しみになって来た。
吉永も伊坂家のクリスマスパーティに来るかもしれないし、そうなれば綾乃も大喜びだろう。
綾乃からは夕方電話があって、熱を帯びた会話をさんざん聞かされた。
ふたりして吉永の両親へのクリスマスプレゼントを選び、そのお礼にと、綾乃はかわいいサンタのぬいぐるみを買ってもらったらしい。
しゃれた喫茶店で、コーヒーまで飲んだと言う綾乃に、葉奈は苦笑して「砂糖は入れた?」と聞いた。その問いの答えは葉奈の予想外のものだった。
「それがさぁ、吉永先生、コーヒーはブラックで飲めないって言って、砂糖入れてんのよ。だからわたしも、好きなだけ入れられたよ」
なんだか綾乃と吉永の未来に急に明るい光が差したような気がして、葉奈は嬉しくなった。
聖夜には、みんなのところにサンタがやって来てくれるかもしれない。
翔の車の側に来て、頬がひりつくほど夜風が冷たい中、ふたりは黙りこくって立ち止まった。
葉奈は、何か言葉にしたそうで、けれど言葉が出て来ないのか、もどかしい表情をしている。
葉奈を見つめ、翔は精一杯微笑んだ。
別れの時は、いつでも心が急激に冷えてゆくけれど、それを丸ごと葉奈に感じさせたくはなかった。
「それじゃ、葉奈…」
「あ、あのっ」
「何?」
「えーと、…そのコート、肌触りがとてもいいです…ね」
無理やり話題を探し当てたという感じだった。
翔は嬉しさを堪えて頷くと、昼間したようにコートを広げて葉奈を包み込んだ。
葉奈はいつでも花のような香りがする。
「葉奈、香水付けてる?」
「いえ、つけてませんけど…」
「とても甘くていい香りがする」
「そ、そうですか?シ、シャンプーかしら」
葉奈が焦ったようにどもった。
どうやら翔の声に含まれたセクシュアルなものを感じ取ったらしい。
甘い雰囲気に、翔の胸がじんわりと痺れる。
「これと同じコート、葉奈が欲しければ…」
彼はそこまで言って言葉を止めた。葉奈は欲しいとは言わないだろう。
あの恐ろしく葉奈に似合ったドレスでさえ、いらないと言ったのだ。
葉奈が翔のコートの中で小さく身動きした。なにやら思案している様子だ。
少しして、彼女が翔の胸に向かって囁くように言った。
「欲しい…かも」
「え?」
「同じもの。お揃いで…嬉しいし」
意外な彼女の反応に、翔は戸惑いつつも喜んで応じた。
「そうか、ならクリスマスに間に合うように注文しておこう」
「あ、あの、先生。これって、…ものすごく高いものなのじゃ?」
「うん?高いってほどじゃない」
翔はさりげなく答えた。
値段を知ったら、葉奈はいらないと言い出すに決まっている。
「あの、やっぱりいいです。アクセサリーとかで…あ、やっぱり、服とか…ぬ、ぬいぐるみとかで…」
「分かった」
「ち、違う。そんなつもりじゃなくて…ひとつでいいんです。ひとつで」
翔の即答に、どうやら彼の心の中が見えたらしい。葉奈の顔が泣きそうに歪んだ。
「葉奈、心配しなくてもちゃんと分かってるよ」
いつまでも寒空に葉奈を引き止めてはおけない。
翔は葉奈の髪を撫でると、身体を離して車に乗り込んだ。
バックミラーに葉奈の姿を認めながら、伊坂はため息をついた。
ただ、葉奈の喜ぶ顔がみたい、それだけなのに…。なかなか分かってはもらえないようだ。
それでも、これからのことを考えると、嬉しさが湧く。
冬休みの間ずっと、葉奈を側に置いておけるのだ。
葉奈の母から、相談を持ちかけられたとき、初め、翔はかなりがっかりした。当然葉奈も行くものだと思ったからだ。
毎年、伊坂家でのクリスマスのパーティは大掛かりすぎて嫌いだったが、今年は楽しめるかもしれない。
とにかく、母親がクリスマスを溺愛しているのだ。
家の玄関にも居間にも、クリスマスツリーやら様々なオーナメントを飾り、パーティを行う大広間などは見上げるようなクリスマスツリーが飾られている。
あれは一種の病気だな…
父親も呆れているはずなのだが、年末で忙しい中の貴重な休みだというのに、クリスマスグッズを買いにつき合わされている。
惚れた弱みか…
そう思ったものの、翔は眉を寄せた。
葉奈がそれを彼に求めたら…
「惚れた弱み…か」
翔は口元を緩めた。ひどく笑いが込み上げてきた。
家に帰って風呂に入り、書斎のドアノブに手を掛けたところで、携帯の着信音が鳴り続けているのに気づいた。彼は寝室の部屋に入って携帯にでた。
「もう、翔ってばちっとも出ないんだもん。もう寝てたの?」
「なんだ綾乃か?」
「なんだとは何よ。悪かったね、わたしで」
「何か用事か?」
「用事があるから掛けたに決まってるじゃん」
「切るぞ」
「もう、分かったわよ。ファッションショーのことなんだけど…更紗さんから電話もらって…」
「らしいな。玲香も言ってたよ」
更紗とは、買い物の途中でもう一度話をした。
あのドレスがあまりに葉奈に似合っていたから、とにかく押さえておこうと思ったのだ。
その時、彼も、葉奈にモデルのことを頼んでくれないかと言われた。
「それで、葉奈を説得してくれないかって言われたんだけど…」
「綾乃が頼まれたんだろう?俺に了解取る必要ないさ。葉奈の意思だ。彼女が出たければ出るだろう」
「それじゃいいのね!わたしも玲香も出るんだから、葉奈も、きっと一緒に体験したいだろうと思うんだ。いましか出来ないことだし…」
綾乃の最後の言葉は、翔の胸に妙に重かった。
今しか出来ないこと…
翔もこれまで多くのことを体験してきた。それと同じく、葉奈にも様々な体験をしてもらいたい。
葉奈を自分の手元において、独り占めしておきたい思いは強いが、それでは葉奈が葉奈として生かされないだろう。それは彼の望むことではない。
「そうだな」
とは言っても、モデルなど、正直やって欲しくはなかったが…
綾乃は元気な声を最後に残して電話を切り、翔は携帯を見つめ、苦笑交じりのため息をついた。
葉奈にモデルを依頼した時点から、叔母はそれを現実化するために動いていたに違いない。
すでに葉奈のイメージのドレスすら手がけているだろう。そういうひとなのだ。
物腰と言葉はおだやかでひとあたりの良い叔母だが、やると決めると、様々な手段を用いてことを成し遂げる。
だからこそ、デザイナーとして名声を博し、いつくものブティックを維持してゆけるのだろう。
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