恋風 クリスマスバージョン |
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その9 薔薇に口づけ 「そろそろよ」 ひとりが時計を確認して言うと、もうひとりが「了解」と張りの良い声を上げ、ふたりがさっと立ち上がった。 床においてあった箱を開けて、ふたりして丁寧な仕草で中のものを取り出す。 真紅の布だった。 「それって、なんなんですか?」 すっかり支度は終わったと思っていた葉奈は、呆気に取られて尋ねた。 「これを重ねるの。今日のスペシャルですからね。ゴージャスな演出を…」 「更紗先生、来ないわね、まだかしら?」 「打ち合わせに時間が掛かってるのよ。すぐに来てくださるわ。とにかくわたし達でやっちゃいましょう。信頼して任せてくださってるってことなんだから」 「そうね。そうだわ。頑張ろう!」 いやに気合が入っているスタッフの手で、真っ白な花嫁だった葉奈は、紅色に染められていった。 初めの純白のドレスは消え、そこには真紅のウエディングドレス姿の花嫁が誕生した。 「すっごい。真紅なのに、なんでか無垢そのものの花嫁に…」 その時、カーテンが開いて更紗が入ってきた。 「まあ、素敵。ベールは?」 「すぐに」 スタッフはもう無駄口を聞くことはなく、テキパキと葉奈に淡く赤いベールをつけ最後の仕上げに入った。 これしかないけれどと、手渡された小さな鏡の中に映る存在は、葉奈ではなかった。 綾乃や玲香にみたメイクの魔術が、葉奈の面にも怖いくらい発揮され、髪に飾られた純白の薔薇が、まるで精気を発するように生き生きとして葉奈を彩っている。 自分の目を見つめた葉奈は、他人に見つめられているような錯覚に襲われて鏡を下ろした。 「きっと皆様驚かれて、会場がざわめくかもしれないけれど、葉奈さん、気にせず、ただ教わった通りに歩いて下さいね」 葉奈は素直に頷いた。彼女には頷くしかすべがないのだ。 真っ赤なウエディングドレスなんて葉奈もありえないと思う。 会場がざわめいても当然だろう。 命じられたままに動くしかない。それしかできないのだから。 「先生、まだですか!」 カーテンの向こうから切羽詰った声がし、更紗が眉を上げた。 「慌てても意味ありませんよ。落ち着きなさい」 「でも、先生」 「あとのふたりの支度は?」 「すでにスタンバイしてますっ」 必死で叫ばれた声に、更紗がまた眉を上げた。 「準備は整ってます。葉奈さん、行きましょう」 ドレスの裾は長く、前もって注意を受けていた通り、気を抜くと裾を踏んでしまいそうだった。 舞台の上で無様に転んだらどうしようという不安が押し寄せ、葉奈の緊張はさらに増していった。 葉奈が舞台裏に行くと、見違えるばかりに変身した綾乃と玲香がいた。 三人が驚いて叫ぶ前に、更紗が唇に指を当てた。 舞台はすぐそこだ。 こんなところで歓声を上げたりしたら、せっかくの格調高い雰囲気も総崩れだ。 流れている曲が変わった。 ゆったりとしたやさしい曲だった。 この曲に何も考えずに、ただ歩調をあわせて歩けばいいのだ。 葉奈は自分に言い聞かせた。 綾乃と玲香が同時に出て行った。 客のさわさわとしたやさしいおしゃべりのような音が加わり、会場の雰囲気がパッと明るくなったように思えた。 葉奈の心臓は、胸を突き破って飛び出しそうなほど暴力的になっていた。 息を大きく吸って吐き、なんとか押さえようとしても、狂ったように暴れる心臓をどうやってもおとなしくさせられない。 「葉奈さん、大丈夫よ」 全身を憐れなほど震わせている葉奈を見て語られた更紗の言葉は、心配を通り越して、どこか諦めが混じっているように葉奈には聞こえた。 「わたし、とても…」 出てゆけません。そういうつもりだった。 そんな葉奈の肩に手を置いて、更紗が言った。 更紗の手のひらは温かかった。そのぬくもりに、葉奈は少しだけ安堵を感じた。 「翔さんがいるわ」 「え?」 「だから大丈夫」 意味が分からなかった。 客席で彼が見ているから落ち着けというのだろうか? 「さ、出番よ。…葉奈さん、どんなことも楽しむのよ。人生はそのためだけにあるのだから」 言葉とともに背中を押され、葉奈は暗い舞台に立った。 舞台の突端からこちらに向いて歩いてくる綾乃と玲香がいた。 ふたりはとても華やいだ笑みを浮べ、手を繋いで弾むように軽い足取りで戻ってくる。 葉奈には考えられないほど、ふたりは楽しげだった。 綾乃と玲香がすぐそこまで来たとき、葉奈の真上から、クラッと眩暈がしそうなほどの光が注がれた。 その瞬間、会場内が、更紗が予測していた通り大きくどよめいた。 刺すような光とどよめき。葉奈の思考がショートした。 綾乃と玲香が葉奈の横に辿り着いた。これを合図に葉奈は歩き出すはずだった。 だが… どうしても足が動かせなかった。 自分の足ではないように、感覚を感じられない。 感じられない足でこうして立っていられることの方が、葉奈には不思議な気がした。 おかしなことに震えは収まっていた。 葉奈は自分がどこに存在しているのかわからなくなった。 綾乃と玲香のふたりが、何気ない仕草で葉奈を舞台の中央へと押し出そうとしているのだけは感じられていた。 「葉奈!」 名前を呼ばれた途端、視界が開けた。 視線の先に伊坂がいた。 どうしてか、先ほどまでのシックなスーツではなく、まるで王子様のような衣装を身につけている。 「おいで」 言葉とともに、伊坂が片手を差し出した。 葉奈は無意識に、その手に向かって走り出していた。 ゆっくり歩くという言葉が脳裏の隅で囁いていたが、そんなことに構っていられなかった。 気づいたときには、葉奈は差し出された伊坂の手を握りしめていた。 伊坂に触れ、彼の瞳を見つめているうちに、葉奈の精神がやっと元に戻ってきた。 伊坂が葉奈の頬に手のひらをあて、顔を覗きこんできた。 葉奈の意識と繋がったことを確認したというように、伊坂が微かに頷いた。 そのあと、伊坂のリードにあわせて一度大きく回り、ふたりは綾乃と玲香が待つ場所まで、ゆっくりと戻った。 その頃になって、葉奈はやっと自分の犯したことを冷静に受け止めていた。 とんでもない失敗をしてしまったけれど、とにかく終わったのだ。 そう思った瞬間、周りが真っ暗になった。 驚いたことに、各テーブルの明かりまで消えてしまっている。 暗闇の中、葉奈の周りに数人の人間が走りよって来たと思う間もなく、彼らは葉奈のドレスをいじり始めた。 方向を転換させられ、呆然としている中ライトがついた。 会場がわあっと大きな歓声と拍手で湧いた。 葉奈は誰かに手を取られて顔をあげた。伊坂だった。 濃いグレーのタキシード、真っ黒な蝶ネクタイ。 それらの服装が違和感なく、しっくりと馴染んでいる彼を、葉奈は妙に遠く感じた。 「葉奈、いくよ」 伊坂が葉奈の耳元に囁き、葉奈をエスコートして歩き始めた。 どういうことなのか分からなかった。 数歩歩き始めたところでやっと、葉奈は自分が真っ白に変身していることに気づいた。 後ろから綾乃と玲香もついてくるようだ。どうやらショーのフィナーレらしい。 音楽も明るく華やかな音楽に変わっていた。 舞台の先端までやってきて、葉奈は驚いた。 明るいライトに浮かび上がっている男性が、舞台下の左右に立っていた。聡と吉永だ。 聡は愉快そうに笑っていたが、吉永は明るい照明をくらって、かなり困った様子で佇んでいた。 思わぬ演出に、会場内がざわめいている。 聡が両手を広げた。躊躇したあと吉永も両手を広げた。 葉奈の後ろから綾乃と玲香が駆けてきて、ほぼ同時にぽんと跳んだ。わっと叫ぶ観客。 真っ白なドレスのふたりは、それぞれの男性の腕の中にうまい具合に収まり、会場内が笑い声とともに大きく湧いた。 聡と玲香のカップルも笑い声を上げて楽しげだ。 吉永の首に抱きついている綾乃の表情は見られなかったが、吉永は顔中真っ赤になっていた。 「葉奈」 綾乃と玲香たちを見つめて微笑んでいた葉奈は、伊坂に顔を向けた。 王子様は葉奈の髪から薔薇を一本抜き取り、純白の薔薇をそっと葉奈の唇に押し当てると、そのまま自分の唇に触れた。 薔薇を自分の胸元のポケットに挿した伊坂の唇が、小さく動いた。 唇だけで語られたそれは、葉奈の胸にははっきりと届いた。 愛してる 葉奈は愛でいっぱいに膨らんだ心を噛み締めて頷いた。 End その10に続きます。 |
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