恋をしよう 
その1 特別席



「詩歩ちゃん、花に見惚れてるのもいいけど、そろそろ行かないと…」

玄関先にあるエニシダの黄色い花に見入っていた渡会詩歩(わたらい・しほ)は、叔母のからかうような声で我に返り、慌てて時計を見て顔をしかめた。もう二十分もない。

「真理さん、ありがとう。行って来ますっ」

前方に向けて言った言葉を追い越す勢いで、詩歩は駆け出した。

「はーい。詩歩ちゃん、今日も元気で、いってらっしゃーい」

笑いさざめくような真理の声が、駆けている詩歩の背を温かく包んでくるようだ。
詩歩はもう一度時間を確かめ、学校へと続く馴染みの道を辿って行った。

桜の花はすでに散り、初々しい葉の芽吹き始めた枝が爽やかな風に揺れ、青空がすべての背景となり、ゆっくりと流れてゆく白い雲を同じ方向へと導いている。

空のご機嫌な高笑いが聞こえるようだ。
特別に素敵なことが起こるような気がして、詩歩は駆けながら青空に向かって微笑んだ。

今度は空の花にしよう。幸せいっぱいの空の花。
そう心に決めた。

急いだおかげで、始業の十分前には着けた。
新しいクラス分けの書き込まれた紙が貼られた校舎の壁を目指して、息を整えながら詩歩は歩んで行った。

ひとりでもいいから、仲の良い友達と同じクラスになれるだろうか?

「詩歩。遅いよー」

その呼びかけに詩歩は視線を走らせ、手を上げている中島美都(なかじま・みと)を見つけて駆け寄って行った。
だが、心が少し沈んだ。
美都が浮べている表情から、ふたりが同じクラスでなかったことが分かったからだ。

「美都は、何組?」

「二組。でもお隣だよ。詩歩は一組」

「そっか。山ちゃんは?」

山ちゃんとは、山口由香里(やまぐち・ゆかり)のことだ。
男勝りな彼女は名前で呼ばれることを好まないので、ふたりは山ちゃんと呼んでいる。

「ごめん。わたしと同じ」美都が申し訳なさそうに言った。

「謝ることじゃないわ。ふたりが同じで良かったじゃない。それにわたしも隣だし。クラス多いのに、そんなに離れ離れってわけじゃなくて良かったぁ」

強がって言ったものの、その言葉に隠しようもない淋しさが滲んでしまった。

「詩歩のクラス、くるくるくるみちゃんが一緒だよ。それに…」

美都が困った顔で取り成すように言ったとき、背後から凛々しい声が飛んできた。

「おはよう」

陸上部の由香里は、始業式の今日も朝錬で走っていたのか、髪を濡らし、その肩にはスポーツタオルを掛けていた。
それにしても派手に濡れている。

「山ちゃんってば、また頭から水浴びたの?」と苦笑しながら詩歩は言った。

「うん。汗が凄くて。水浴びなくても、びっしょりだったし。で、どうだった? ふたり、何組?」

「山ちゃん、わたしと同じ二組。詩歩は残念ながら一組」

「そっか」
額に掛かった髪から雫が垂れタオルで拭きながら、由香里はあっさりと頷いた。

「でも、一組は凄いメンバーが揃ってて、面白いクラスになりそうだよ。ほら見てごらんよ」

詩歩は、促されるまま自分のクラスの名前を確認してみた。

おちゃめな性格で、目がくりくりと愛らしい柏井くるみ(かしわい・くるみ)。
生徒会長の保科海斗(ほしな・かいと)。
そしてサッカー部のキャプテン、矢島陸(やしま・りく)。

この三人はこの学校で知らぬ者はない。
おまけに担任は、風来坊みたいな風貌をした名物教師、淀川教志郎(よどがわ・きょうしろう)。

まだ二十代らしいのだが、無精ひげを生やし、櫛を通したことは一度だってないだろうと思えるぼさぼさの髪の淀川は、どうみても三十過ぎの危ないおっさんにしかみえない。

「矢島と、保科が同じクラスか」
由香里が、ふーんと面白がりながら言った。。

「詩歩のクラスの女の子たち、他のクラスの女子に妬まれそうだねぇ」
そう言って、美都があははと愉快そうに笑う。

平々凡々が心地よい地味めの性格の詩歩は、美都の笑いに同調する気になれない。

「ふたりとも、そろそろ行くよ。新しいクラスになった初日に遅刻じゃ格好つかないもんねぇ」

由香里が豪快に笑いながら、詩歩と美都の背中を押してどんどん歩みだした。


「どんな場所にも三日いたら慣れるもんさ。元気だしな、詩歩」

廊下で別れる間際、由香里に励ますようにドンと背中を叩かれ、由香里には笑い返したものの、詩歩は胸のうちでため息をつきながら、新しい我がクラスに入って行った。

一組は熱かった。
その熱気は半端でない気がした。

詩歩はひとの気を感じやすい。
ひとが痛みを感じていると、それと分かるし、悩んでいるとそれと分かる。

新しい仲間が勢ぞろいしたクラスの中は、明るいざわめきで満ちていた。
気の熱さもとても暖かく、詩歩は微笑んだ。
この中に、仲の良い友達はまだいないが、これならばやってゆけそうだと思えた。

詩歩の席は、最後尾の一番左端。
苗字の始まりが『わ』の彼女はだいたいここが定位置だ。

ゆっくりとクラスの中に視線を巡らせていた詩歩は、教室の後ろのドアのところに佇んでいる人物と目が合って、ためらいがちに頭を下げた。
その人物が、詩歩と目を合わせたままゆっくりと近づいてきた。

驚いている詩歩の隣まできて、保科海斗は詩歩の隣の机に鞄を置いた。

「よろしく」

彼が笑顔でそう言ったとき、魔法が解けたように詩歩は瞬きを繰り返した。

「こちらこそ、…あの、よろしくお願いします」

「よう、保科。一緒のクラス初めてだな。よろしくな」

詩歩の前に座っていた男子が振り向いて海斗に言った。なんと矢島だった。

「後ろの彼女もよろしくぅ」

矢島がおまけのように、真後ろに振り向いて詩歩に言った。

詩歩は微笑んで頭を下げ、窓に向けて苦笑した。
まったく、なんて席になったのだろう。

教室のほぼ真ん中には、くるみがいて、みなの輪の中心になっている。
彼女ほど憎めない子はいないだろう。
くるみのあったかな気は、こんなに離れた場所に座っている詩歩のところまで届いてくるようだった。




   
inserted by FC2 system