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その12 強烈なアピール
保科家は、その外観、内装、ありとあらゆるものが、上品にしつらえられてある気がした。
玄関には高価そうな磁器が品よく置かれ、白いカサブランカの大輪が何本も、大きな花瓶にざっくりと生けてあった。
「いい香り!」
玄関に入った途端、詩歩は声を上げた。
あまりに見事なカサブランカに魅了されて、詩歩は目の前に海斗の祖母と姉が、詩歩を出迎えに出て来たのにも気づけなかった。
「この花、朝はなかったと思うが…?」
「光一郎さん、そういう内輪の話はなさらないで…」
慎ましやかに叱責する声が耳に入って、詩歩はハッとして花から顔を上げた。
赤くなった詩歩の肩に、海斗がやさしく手を置いた。
「詩歩は、花が大好きだから…」
海斗にあたたかな笑みを向けられ、詩歩はさらに赤くなった。
保科家の上品さに圧倒されて緊張しっぱなしだった詩歩も、昼食をいただきながら家族の会話を耳にしているうちに、リラックスしてきた。
海斗の家族はみな、詩歩に部外者と感じさせることもなく、無理やり会話に引き込もうとすることもなかった。
彼女の存在を受け入れ、ここにいていいのだと思わせてくれる。
そして、ただいるだけで、この輪の一員だと思わせてくれる。
そんないままで感じたことのない不思議な安らぎを、詩歩に与えてくれた。
「詩歩さんは、不思議な人ね」
食事を終えて、お茶を飲みながら話をしているところに唯が考え深そうに言った。
「まるで、あの天国の花と同じ…」
「唯さん、それはそうでしょう。あの絵を描いたお方なのだから、そう思えて当然ですよ」
海斗の祖母が、唯に諭すように言い、言われた唯の頬がほんのり桜色に染まった。
その会話に、光一郎がクツクツ笑った。
「わたしはその…ただ、母のようだなって…」
「わたしが? ですか?」
思いがけない言葉に詩歩は驚き、思わず唯に問い返していた。
唯が恥ずかしげに頷いた。
「ええ、存在が…とても似てらっしゃるように感じられて…。母は、とても大きな…なんていうのか…あたたかなもので、わたし達を包んでくれていて…」
唯の隣で、祖母が強く同意を込めて、何度も大きく頷いた。
「そうでした。ほんとうにそうでした。琉璃さんほどあたたかなひとを、わたしは知りません」
「僕は知ってる」海斗がぼそりと言った。
みなが海斗に振り返った。
彼は何も口にしなかったような表情で、詩歩に話しかけてきた。
「君の天国の花、見てゆく?」
海斗にそう聞かれ、詩歩は迷わず頷いた。
なぜか海斗が満足そうに微笑んだ。
詩歩は海斗の後に着いて居間を出た。
海斗はまず玄関に向かい、二階への階段を振り返りもせずに上がってゆく。
詩歩は階段を上る前に、一度上の方を伺い、螺旋になった階段の踊り場から、海斗がおいでというように小さく手を上げたのを見て、階段を上がって行った。
「どうぞ」
二階の突き当たりのドアを開けて先に入り、海斗は詩歩を招いた。
部屋をゆっくりと見回して、詩歩はすぐに悟った。この部屋は海斗の部屋だ。
机の上に何気なく置かれたのであろう本も、コンポの横に置かれたCDも、そして海斗を毎夜、夢に誘うのであろうベッドも…海斗のやさしい気で満ちている。
部屋の中央に立っている海斗を、詩歩はいまさらながら見つめた。
海斗の輪郭がふいに滲んだ。眩しいほどの光を感じた。
詩歩は胸が詰まって、涙が止められなくなった。
「詩歩?」
「なんでもないの。なんでも…」
海斗の香りがすぐ傍で香ったと気づいた瞬間、詩歩は彼に柔らかに抱きしめられていた。
「ダメ」
詩歩は驚いて、咄嗟に海斗の胸を押し返そうとしながら、小さく叫んだ。
「僕に触れられたくない? 抱かれたくない?」
「そうじゃない…、わたし…そんな価値ない」
海斗の腕に驚くほど力が加わった。
詩歩と海斗の胸が密着し、どくんどくんと跳ねる互いの鼓動が共鳴し、ふたりの胸を強く震るわせる。
「君が自分にどういう価値をつけようと君の自由だけど…。なら、君の中で、僕はいくらかでも価値のある存在なの?」
海斗に鋭く問われて、詩歩は全身を強張らせた。
いまさら、価値という言葉に、ものすごく違和感を感じた。
「ごめんなさい。価値なんて言葉、嫌いなのに…」
「僕も嫌いだ」
海斗の言葉にはやさしさが戻っていた。
海斗は信じられないほどの愛を詩歩に注いでくれている。
いまさら、その愛を否定するのは愚かだろう。
なのにそれでも、詩歩の内面から発する警告の囁きはやまない。
母の死。父の思い…
だが誰より、詩歩の存在を許せないのは、彼女自身なのだ。
「父が言った言葉…忘れてくれないかな?」
海斗の言葉の意味を捉えられなくて、詩歩は顔を上げた。
「あらためて、告白するつもりだから。でも…」
海斗の顔がゆっくりと間近に迫ってきた。
そのスピードは、詩歩の意志を尊重してのことらしかった。
だが、その配慮もいまの詩歩には意味がなかった。
すでに詩歩の思考は切れていた。そうでなかったら、顔を背けていたに違いない。
海斗の香りが詩歩の鼻腔を甘くくすぐり、その甘さが詩歩そのものを痺れさせてゆく。
どのくらいの時間、唇を合わせていたのか、詩歩にはわからなかった。
海斗に痛いほど強く抱きしめられ、痛みと苦しさで詩歩は我に返った。
「く、苦しい。海!」
詩歩が息も絶え絶えに懇願するような叫びを口から洩らし、やっと海斗の腕が緩んだ。
大きく喘いで、詩歩は思うさま息を吸い込んだ。
「詩歩、ごめん」
海斗もずっと息を詰めていたのか、大きく息を吸って吐き出した。
「あー、驚いた。キスの威力がこんなに凄いとは、思わなかった」
海斗はそう言った瞬間、とんでもないことをしでかした。
詩歩は、頭のてっぺんから、巨大な火の玉がボンと飛び出たような気がした。
硬く熱い強烈なパワーを秘めた固体が、彼女の下腹部でその存在をアピールしている。
アピールが続く中、驚愕に目を白黒させている詩歩を見て、海斗が「悪い」と呟いた。
「悪い…悪い…悪い」
「あ、詩歩が壊れた」
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