恋をしよう 
その13 存在の重さ



光一郎に家まで送ってもらう帰りの車の中で、海斗は詩歩の手をずっと握り締めてくれていた。
あたたかでやさしい気が、彼の手のひらから詩歩の中に絶えず流れ込んでくるようだった。

海斗のしたことに驚愕するほど驚いたのも事実だし、いまも混乱の最中にいる。
それなのに、くすぐったいような笑いも、絶え間なく込み上げてくる。

「詩歩の、あの絵だけど…」

詩歩の気持ちを自分に向かせようとしてか、彼女の手を一度ぎゅっと握ってから海斗が言った。

ふたりの視線が合うと、海斗が続けた。

「居間に置こうというのを、僕が嫌がってるんだ」

詩歩の目を見つめたまま海斗が続ける。

「いま、君が描いている絵、またチャリティーに出すつもり?」

「完成すれば」と詩歩は言った。

海の花は完成するだろう。
だが、あの絵をチャリティーに出すつもりはなかった。
当初描こうとしていた空の花を、チャリティーまでに完成させることができれば出すつもりだった。

「完成したら、僕に一番に見せてくれる?」

詩歩は頷いた。海斗に贈ろう。あの海の花を…

笑みを浮べた海斗を詩歩は見つめた。海斗が、「何?」というように詩歩を見つめ返してくる。

わたしなんかでいいの?

そう問いたい気持ちが一瞬湧いたが、詩歩はその言葉をすぐに打ち消した。

思いは、それぞれのひとのものだ。

そして、詩歩が自分という存在を疎ましく思うのも、仕方のないことなのだ。

詩歩の家に着いた。
海斗の父に丁寧にお礼を言い、詩歩が車を降りると海斗も続いて降りてきた。
光一郎が車を方向転換しているのを見ながら詩歩は海斗に言った。

「わたし、海に、話さなくちゃならないことがあるの」

「そうか、嬉しいな」

詩歩はその返事に驚いて戸惑い顔で、海斗の目を見返した。

「どんなことでも喜んで受け入れる。どんなことでも…」

「海は…海(うみ)と同じね」

海斗が、苦笑しつつ手を横に振った。

「いや、悪いけど、僕は君が思うほど心が広くないんだ」

彼のすぐ近くに、光一郎の車が止まった。
海斗が詩歩の耳に唇を寄せて、微かな声で囁いてきた。

「矢島や他の男子が君に触れるたびに、嫉妬でどうにかなりそうになる」

「海斗、公衆の面前だぞ」と、光一郎の愉快そうな声が飛んできた。
角度的に、海斗が詩歩にキスをしたように見えたのかもしれない。

海斗の指が、詩歩の唇をそっと撫でた。その刺激に詩歩の全身が小さく震えた。

「それじゃ、詩歩。二度目のキスは、明日」

去ってゆく車を見送りながら、詩歩は現実を取り戻そうとして、自分のほっぺたを必要以上に強く捻った。





家の中に入り、詩歩は玄関から真理に呼びかけたが、返事はなかった。
また作業場で時のたつのを忘れているのだろうと思いながら、詩歩は居間へと入った。

「真理…さん?」

ひどく不自然な格好で、真理が床に転がっていた。

「ま…真理さん!」

真理は目を見開いていた。
瞳が詩歩に向き、詩歩は緊張して身体を強張らせた。

真理の瞳に恐怖が見えた。
事態が飲み込めず真理自身、混乱しているようだった。

「詩歩ちゃん、なんか…おかしいの…耳が…ぼーっとしてて…声が…」

詩歩は息を止めた。
この症状には、忘れられない辛い記憶あった。

「き、救急車、呼ぶ…」

「…の方がいい…のかな?ね、詩歩ちゃん、これって似てるよね…あの時の…姉さん…」

「真理さん、心配しないでわたしがついてるから」

早口に詩歩は言ったが、彼女の全身は、隠しようもないほどガクガクと震えていた。

詩歩は大きく震える手で携帯を取り出した。
救急車の二文字がぐるぐる渦巻く中、パニックに襲われて彼女の目に涙が溢れてきた。

「真理さん、どうしよう…わたし…海、海…」

無意識に言葉を発しながら、詩歩は携帯を無我夢中で操作した。

「詩歩?どうしたの?」

「真理…うっ…うぐっ、真理さん倒れ…てる。意識あるけど…でも、どう、どうしよう、海、海、真理さん死んじゃう。助けてっ」

詩歩の悲痛な叫びに、海斗の緊張した声が返って来た。

「父さん!緊急事態、詩歩の家に戻って。詩歩、すぐ行くから」

海斗は、戻ってくるまで、ずっと詩歩と繋がっていてくれた。
詩歩は真理の瞳を瞬きもせず見つめ続けながら、真理を母のようには連れてゆかせまいとして、手をぎゅっと握り締めていた。

海斗の声に、詩歩は次第に落ち着きはじめ、救急車を呼んだ。

真理の意識は病院についてすぐに途絶えた。
怖れていた医者からの告知。

冷たい病院の中、海斗の存在だけが詩歩の支えだった。
海斗の存在がどれほど大きなものになっていたのかを、詩歩はいまさら気づいた。




   
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