恋をしよう 
その14 過去の意味



空が白み始めていた。
時間の経過など無関係に感じる集中治療室の中では、医師や看護師がたえず動き回っている。

詩歩を元気づけるために、やさしい笑みや明るい声を掛けてくれる彼らに、強張りのとれない頬のまま、彼女は無言で頷いていた。

様々な医療器具が取り付けられた真理の様が、過去とダブり、ピッピッという真理の生を知らせ続ける音が、詩歩を必要以上に怯えさせる。

意識が戻る様子のない真理の手をやさしく撫で続けながら、、詩歩は寄り添ってくれている海斗から発する愛を感じていた。
彼の手のひらの温かさだけが、いまの詩歩の精神を落ち着かせてくれる。

「海、頼みがあるの」

「なんでも」

そう応えてくれた海斗に、詩歩はポケットから携帯を取り出して手渡した。

「岸川幸太っていうひとに電話して、真理さんのこと伝えて欲しいの。どうしても逢わせてあげなきゃいけないひとなの」

「真理さんの…恋人?」

「う…ん。真理さんを愛してくれているひと。真理さんも…」

海斗が外に出てゆくのを見送ってから、詩歩は真理に明るさを込めて囁いた。

「真理さん、寝てる場合じゃないわよ。あのひと来ちゃうんだから…ね、真理さん、自分の心に素直にならなきゃだめだよ」

真理の目覚めを期待して、詩歩は同じような言葉を繰り返し真理に囁いた。
そうしているうちに、海斗が戻ってきた。

「すぐに来るそうだよ。とても…大切に思ってるみたいだね、真理さんのこと。倒れたって聞いて、岸川さん…息を呑んだまま声を出せなかった」

「…そう。海、ありがとう」

詩歩は、バッグを手に取った。

「わたし、少し外の空気を吸いに行きたい。海も一緒に…」

「岸川さんが来るから?」

意味を含めた海斗の言い方に、詩歩は手を止めてゆっくりと振り返った。

「海、そのひとと、…何か話した?」

「詩歩、どうしてそのひとって呼ぶの?」

詩歩は、まっすぐな海斗の視線を見返した。
彼女は大きく息を吸って胸を膨らませ、よどんだ空気をすべて吐き出すように長い息を吐いた。

「彼を父だと思うのは、やめたの」

「詩歩らしくないね。何があったの?」

詩歩は海斗に背を向けて、真理の手のぬくもりを確かめるために握り締めた。
真理から離れるのは辛かったが、詩歩はゆっくりと手を放し、海斗と視線を合わせてからドアに向かった。

「歩きながら話すわ」


詩歩の両親は、大学のサークルで出会った。
すぐにふたりは付き合い始め、流れに乗って結婚の約束をし、出逢って二年後に、母が身ごもったのが分かって結婚した。

「…花とか植物がとても好きなひとなの。よくハーブとか育ててた。花を見つめているときの父は、いつもとても幸せそうだった…」

長い話の途中で、思いだすまま記憶の路線がずれてゆく詩歩の言葉を、海斗は辛抱強く黙って聞いてくれていた。

詩歩は、脱線した話の元を手繰り寄せ、歩きながら話の軌道を修正した。
語り出そうとして、詩歩は海斗の手を取って握り締めた。力が欲しかった。言葉にするための力が。

ふたりは病院の広い庭にいた。木立があり涼しい風が心地よく頬に触れてゆく。
詩歩へ向けて、彼女を取り囲む新鮮な空気から気力が注がれてくるのを感じる。

彼女は呟くように言葉にした。

「あの日、…庭にいた父が…手にしていたレンガを投げつけたの…居間に、わたしと母がいて…ガラスが粉々に割れた…」

言葉に出来て、不思議なほど詩歩はほっとした。

「病院に、父は…来られなかった。それ以上父を苦しめたくなくて、母はわたしを連れて、祖父の弟の助けを借りて引っ越したの」

「詩歩が、いくつのとき?」

「八歳、小二の夏休みだった」

六年生の時に祖母が亡くなり、一人暮らしになってしまう祖父の願いで、一緒に住むことになった。
真理はその時結婚していたが、相手のひととうまくゆかず離婚して戻ってきた。

父は、真理に逢って、本当の恋をしたのだ。そして、真理も。
詩歩の母は、そんなふたりの気持ちに初めから気づいていた。

「家を出るときに母が言ったの。わたしたちの傷よりも、深く…父の心は傷ついてる。わたし達を見るたびに、父は自分を責めて苦しむことになる。だから…わたしたちはここにいちゃいけないって」

詩歩はすべてを淡々と口にした。
これまで過去を語ることはなかったが、彼女の心の中では、すっかり整理のついたことなのだ。

「海…いま、わたしは辛くないし、苦しんでもないの」

「わかってる。…でも、過去の詩歩が、僕の中で泣いてる…」

詩歩は、手のひらで海斗の濡れた目尻に触れた。
海の涙はあたたかかった。そのあたたかさが詩歩の中に流れ込み、極度に強張っていた詩歩の体をほぐしてゆく。

ありがとうと、声には出せなかったけれど、海斗はそれを感じて小さく頷いてくれた。

「二人きりの生活のとき、母は自分を責めてよく泣いてた。父の気持ちを知っていたのに、三人の生活を壊したくなくて、気づかないふりをしていたって…」

「アルバムは、お母さんが…?」

海斗の問いに詩歩は俯き、足元の芝生から顔を出している黄色い小花に気づき、それを見つめながら静かに頷いた。

「処分したのかもしれないし、どこかに隠したのかもしれない。でも、出てこなくていいの。目にするのは辛いから」

詩歩は母のよく言ってた言葉を思い出していた。
ひとは本当に必要なものはすべて持って生まれてくる。

でも、その必要なものは目にすることが出来ないから、持っているのを忘れて、ひとは目に見えるものに幸せを求めようとしてしまうと。

詩歩は手を握り締めてからゆっくりとひらいた。
そこには、求めるものすべてがあると詩歩には思える。

「形あるものすべて無くしても、ひとは必要なものすべてを持っている…か」

海斗はそう口にして、考え込んだ。

どんなときでも、詩歩は幸せだったし、母も幸せだった。
父にその真実を分かって欲しい。そして真理にも…

幸せになって欲しいのに、ふたりは幸せになろうとしない。
詩歩もいまは天国にいる詩歩の母も、ふたりの幸せを心から願ってるのに。
ふたりして心を閉ざしている。

詩歩は言葉を切り、彼女の言葉に耳を傾けながら考え込んでいる様子の海斗を見つめた、詩歩の視線を感じて海斗が振り返った。

「父は、わたしをとても愛してくれてる。だから、わたしを見られないの。父が苦しむから、わたしも父の前に出てゆけない」

詩歩は海斗の瞳をまっすぐに見つめながら、胸のボタンを三つ外し、胸元を開いた。
海斗が息を呑んだ。

「この傷はわたしの一部。生きてきた、あかしみたいなもの」

詩歩はボタンをはめ直しながら、呟くように言葉にした。

「ふたりに幸せになって欲しい…。母もそう願ってる」

詩歩は急激に嗚咽が込み上げてきた。胸が苦しかった。

「真理さんは、絶対に、このまま逝くべきじゃない」

両手で胸を痛いほど掴み、詩歩は叫んだ。

「詩歩、君はしなければならないことがある」

立ち上がった海斗が、まっすぐに手を差し出してきた。

「行こう」

詩歩は海斗の手を握り、頷いて立ち上がった。




   
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