恋をしよう 
その15 心の葛藤



病室に入ってきた娘に気づいた詩歩の父は、不安と怯えにまみれていた表情を一変させた。

真理の生を放すまいとするように硬く握り締めていた手を、意志の強固な力を借りて彼は離した。
硬く強張ったその表情、彼の全身も、己に向けた激しい怒りに満ちている。

詩歩はこれまで感じたことのない、激しい怒りを感じた。
詩歩は父に駆け寄ると、父親の手の甲を思い切り叩いた。

「どうして、どうして真理さんの手を放すの?」

手のひらが痛みにじんじんと痺れた。

一瞬詩歩の頬を叩いた吉冨のことが脳裏に浮かんだ。
ひとを叩く痛みはすべて、自分に返ってくる。

「お父さんは、真理さんが、このまま逝ってしまっていいの?」

「…わたしには…権利がない…」

詩歩の父幸太は、この場にいることが耐えられないようだった。
背を丸くして椅子に座っている彼の全身が、わなわなと震えている。

詩歩は辛かった。
父の辛さを癒してやれないことがもどかしくてならなかった。

「人を愛するのに権利なんてものがなぜ必要なの?そんなもの、いったい誰が与えてくれるっていうの?」

「わたしがっ」

幸太は激怒したように顔を上げて怒鳴った。だが、詩歩を目にして、瞳に怖れを浮べて慌てて視線を逸らした。

「幸せになっていいわけがないんだ。お前に、そして…歌歩の顔に醜い傷を負わせた…。わたしは彼女を見るのが恐ろしくて、病院にも行かなかった。あの時以来、彼女が死ぬまで一度も会わなかった。最低な…やつなんだ」

「会わなかったのは、母さんの意志だったわ。母さんがお父さんと会おうとしなかったのよ」

違うというように幸太が緩く首を振った。
心が苦痛を浴びすぎて、彼の身体は気力をすべて無くしたかのように見えた。

「母さんも同じこと自分に向けて言ってた。自分は最低な人間だって…真理と幸太の気持ちを知っていたのに、自分の幸せを最優先にしたって…わたし、わけがわかんない」

詩歩は思わず地団太を踏んだ。

同じ部屋にいた看護師さんが、この治療室での騒ぎを見かねて動きを見せたが、それと気づいて海斗がとめているのを、詩歩は視界の隅に感じていた。

海斗の存在に、詩歩は少し冷静になれた。

「どうして幸せになれるのに、なろうとしないの。心の声に従って何がいけないの。誰も責めない、誰も責める権利なんて持ってない」

詩歩は父親に近付いた。
父親が詩歩を拒否するように身を強張らせたが、彼女は父親の身体を強く抱きしめた。

「お父さんは分かってない。お父さんが不幸であればあるほど、わたしも、お母さんも辛いのよどうしてわかってくれないの」

「詩歩ちゃん、何で泣いてるの?」

詩歩は目を見開き、真理に向いた。
目覚めたばかりのぼーっとした顔で、真理は天井を見つめていた。

幸太が跳ねるように動き、彼は無意識に真理に屈み込んで、その手を強く握り締めた。

「わたしの詩歩ちゃんを泣かせる奴は、…許さないんだから」

「俺だ。真理ちゃん、俺…」

その声に、ほわんとした表情だった真理が、ゆっくりと眉をしかめた。
彼女の思考は、聴覚よりもひどくゆっくりと現実に戻ってきているようだった。

真理が目を閉じた。
それに怯えて幸太が「真理」と叫んだ。

再び瞼を開けた真理は、目の前にいる人物に焦点を合わせた。

「生きてくれよぉ。頼むから…」

前かがみになったままの幸太の目から涙が零れ、真理の頬を濡らした。

「…幸太…さん」

「俺の寿命全部やる、…生きてくれよぉ」

真理は事態がつかめずにぽかんとしている。

詩歩は安堵から、全身から力が抜けてしゃがみこみそうになった。
そんな彼女を、海斗が後ろから支えてくれた。

看護師が医師を呼びに行き、治療室の中がぱっと明るくなった気がした。

詩歩は、この場に母がいるような気がした。
きっといい方向に向かう。そう意味もなく確信を得た。

詩歩は、真理に顔を見せ、視線を合わせて微笑みかけた。

「素直にならなきゃ駄目だよ。わたしにはもう海がいるし、真理さん、ひとりぼっちの老後なんておくりたくないでしょ?」

「詩歩ちゃんてば、何言って…」

おろおろと目を泳がせている真理に、詩歩は真剣すぎる顔を向けた。

「お父さん…頼むね、真理さん。自分を不幸にする天才だから、大変だと思うけど…」

幸太が顔を上げて詩歩を見た。
彼女が、父の瞳を真正面から受け止めたのは…

詩歩は、長い月日を感じて胸がいっぱいになった。
彼女は父に微笑んだ。
幸太は笑みを返してくれなかったが、先ほどまでの、彼の中の煮えたぎるような怒りが溶けてきているのを詩歩は肌で感じた。

「歌歩を見るようだ…」

「娘だから…」

「わたしは…許されてもいいか? 歌歩…、詩歩…」

詩歩は黙ったまま、強く頷いた。

「わたし、海と散歩してくる」

震える声で詩歩は言って、踵を返した。

海斗が手を差し出してきた。詩歩はその手を握り締めた。

これからいつでも必要なときに、わたしにはこの手がある。




   
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