恋をしよう 
その3 天国の花



一時限終了の鐘が鳴り、詩歩はやっとお役御免になった。

席に戻ってほっと息をついたところで、隣の席の海斗が小さなやさしい声で「ご苦労様」と言ってくれた。
海斗の声はほんとうにやさしく、その響きは心が癒される。

「保科君の方が、ずっと澄んだ素敵な声です」

詩歩はそう言ってから、こんな言葉を掛けられるのも彼だからこそだと思った。
他の男子にこんなことを言ったら、行き場を見つけられず、言葉が宙に浮きそうだ。

「君にそう言ってもらえるなんて嬉しいな。ありがとう。ところで、僕も、詩歩って呼んでいいかな?」

一瞬だけ、詩歩の顔が固まった。
海斗との会話の内容に追いつけず、彼女の思考は遅れを取っている。

「も、もちろん構いません」

「僕のことも、海斗って名前で呼んでくれると、嬉しいんだけど…」

ひどくはにかんだ顔で海斗が言った。

「え?」

教室内のざわめきのせいで、詩歩は、聞き間違えたのかと思った。

「駄目…かな」

「いえ、でも…。みんな保科君のこと、名前で呼んでいるんですか?」

彼のことを名前で呼んでいるひとなど見たことがない。
だが、もともと海斗と詩歩は接点がなかったのだから、彼のプライベートなどまったく分からないのだが。

「いや、あまり…いない、かな」

少し淋しそうに海斗が言った。
彼があまりに高い存在過ぎて、親しい呼び方をされづらいのかもしれないと詩歩は思った。

「呼ばせていただきます。保科君がその方がよければ」

「本当に?」

ものすごく嬉しそうに海斗が微笑んだ。
詩歩は、彼の笑みに危機感を感じた。

あまりの眩しさに鼓膜が溶けてしまいそうだった。

「なあ、保科。委員会って、時間、どのくらい掛かる?」

矢島が振り返って海斗に尋ねてきた。

「そんなに掛からないようにするよ」

「うん。頼むな」

「サッカーですか?」

「そう。今が正念場」

「頑張ってるんですね」

賞賛を込めて詩歩は言った。
矢島の頑張りは彼の近くにいる者でなくても分かる。

「詩歩は何もやってないのか?」

「わたしは…」

「詩歩は、絵を描いてるんだ。ね、詩歩」

体全体がどくんと跳ねた気がした。
矢島に繰り返し名を呼ばれてもなんてことなかったのに、なぜ彼の声だと…

「あ、はい。花の絵ばかりですけど」

「熱いよね。君の絵。とても…」

詩歩は、海斗をまじまじと見つめてしまった。
詩歩が絵を描いていることを彼が知っていたことにも驚いたが…

「感じます?」

彼は詩歩の絵から発する気を、感じ取ってくれるひとなのだ。

「うん。君の絵、一枚持ってるんだ」

詩歩の驚きの表情に問いが表れていたのだろう、海斗が続けた。

「天国の花」

去年の文化祭の募金集めのチャリティーに提供した絵だ。
たしか、骨髄バンクへの寄付を集めてのものだった。

「へえーっ、絵が熱いとかあるのか?俺、そういうの全然わかんないよ」と矢島が興味深々で言った。





二時限目のチャイムが鳴り、クラスの仲間は先ほど決まったばかりの掃除担当の場所へと向かって行った。

詩歩は、自分の席から前二列、横一列の計六人と同じグループで、これから一ヶ月は校長室とその周辺の掃除当番だ。

あまり入ったことのない校長室だったが、松任吾久郎(まつとう・ごくろう)校長先生は気さくで、掃除当番の生徒に、お茶とお茶菓子まで出してもてなしてくれ、六人は掃除を終えて戻る道々、嬉しがって大笑いした。

掃除の後は始業式だった。
松任校長の毎年恒例のぶっ跳んだ挨拶は最高だった。

生徒会長の海斗の挨拶を聞きながら、詩歩は先ほどまでともにいたのは本当に彼だったのだろうかと、何度も頬を抓りたい心境に駆られた。

壇上に上がって話している海斗は、あまりにも近寄りがたい。

しなるような体躯、長い手足、少し長めの髪は光沢があり、光を反射して彼をさらに神々しく見せてしまう。

そして、やさしい笑みを浮べる、二重がきっちりと描かれた瞼に縁取られた眼。笑みの似合う男らしい力強さのある唇。低くソフトに響く声。

外見だけでなく、海斗は驚くほどのエネルギーを気に充填している。
容姿よりも、それが彼を不必要なまでに輝かせるのだろうと詩歩は思った。

クラス委員の全体会は、11時半から行われた。
海斗は、昼を過ぎないように、三十分で終了出来るようにしたいから、協力して欲しいと、会の始めにみなに言った。

最後に、クラス委員のまとめ役を決めることになり、海斗は詩歩を名指しし、「君に頼みたいけれど良いですか?」と柔らかに聞いてきた。

三十分を一分ほど過ぎていた。
協力の二文字がちくちくと詩歩を責め、彼女は、「はい」と頷くしかなかった。

「保科君は、言葉はやさしいけど、うまいんだよね、ひとを操るの。みんな気をつけようね」と、副会長のくるみがマジ顔で言い、本人の海斗を含め、みんなが爆笑した。




   
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