恋をしよう 
その4 痛み



美術室の空気が詩歩は好きだった。
絵の具の香り、キャンパスの香り、そして石膏の香り。

並べられた作品から製作者の思いが、離れがたくゆらゆらと揺れている気がする。

日の光と空気の助けを借りて、色と形の交ざりあいを刻々と変え、複雑な創造の意識は本人の手を離れても、いまなお成長してゆくようだ。

絵筆を手に取り、幾つもの色を合わせてゆく。
心に添う色を創り出せると喜びが湧く。
詩歩は真っ白なキャンパスに光を躍らせていった。

新学期が始まってすでに二週間が過ぎていた。

初日は驚くようなことばかりだったけれど、日常の流れは楽しく、詩歩は彼女らしい、一番居心地の良いところに自分の居場所を設けていた。

始業式の帰り道、詩歩は美都と由香里と合流し、お互いのクラスのことを報告がてら、ハンバーガーを食べた。

詩歩の席が矢島と海斗に挟まれていると聞いて、美都は羨まし過ぎと叫んだ。
由香里の方は、「明日からの昼食、一組の子と食べなよ」と、釘を刺すように言った。
美都は不服そうだったが、詩歩は由香里に素直に頷いた。

「詩歩がひとりで食べてたら、わたしら、必ず行くから」

由香里がそう付け加え、それを聞いた美都は、詩歩よりも嬉しがって、うんうんと頷いた。

詩歩は筆を止めた。
キャンバスを見つめて首を傾げた。
表現したい色合いに、違う思いが混じってしまったようだ。

詩歩は思案したあげく、そのまま描き進めることにした。
拘りは持たないほうが自然だろう。

キャンバスをじっと見つめていた詩歩は、頬に冷たいものが触れて驚いた。

「あ、やだ。ごめんねぇ」

同じクラスの吉冨だ。
彼女の筆が詩歩の横を通りざま頬に触れたのだ。
もちろん、故意なのは分かっていた。

「うん。大丈夫だから」

詩歩は、吉冨の複雑な笑みの中の痛みを感じていた。

彼女からは昨日も似たようなことをされていた。
詩歩が廊下で吉冨の横を通るとき、足を出して来たのだ。
詩歩は足を取られて見事に転び、胸をしたたか打った。

詩歩の顔をまじまじと見つめたあと、吉冨が大袈裟にぶっと噴いた。

「やっだー、詩歩、髭みたいー」

さげすみを込めた笑い声が教室に響いた。
だが、吉冨にそう言われても、詩歩の怒りは湧かなかった。
吉冨の痛みが、それらの言葉を発するほどに彼女の中で増してゆくのが分かるのだ。

美術室の中にいる何人かは、吉冨を非難の目で見つめ、何人かの顔は苦い喜びを隠しているようだった。

吉冨を非難の目で見つめている者達は、吉冨になにか言いたそうだが、詩歩が怒りも惨めさも感じていないのが分かるから、それを出来ずにいるのだろう。

「顔、洗ってくるね」

「顔洗わなくたっていいんじゃない。詩歩、大して変わらないわよ」

吉冨は、詩歩を名で呼びたくないのに、詩歩と呼ぶ。
たぶん、一組のクラスの仲間外れになりたくないのだ。
ひとの心は本当に複雑だ。

顔を洗っていると、二年の上月が後ろから苛立たしげに話しかけてきた。

「渡会先輩、どうして吉冨先輩に怒んないんですか?あれワザとなの、先輩だって分かってるんでしょ?」

「上月さん、ありがとう。わたしのこと気に掛けてくれて。でもね、いいの」

「どうしてですか?そんなの納得いかないです」

詩歩のために、地団太踏みそうなほど歯痒そうに顔を歪めている上月の様子に、詩歩は感謝を込めて一瞬だけ笑みを浮べたものの、その笑みはすぐに翳った。

「吉冨さんは苦しいの。なんでかは言えないけど…」

「偽善者!」

後方から大声で怒鳴られた。
振り向くと、吉冨が怒りに肩を震わせて仁王立ちになっていた。

「みんなにいい子ちゃんぶって、みんなからちやほやされて、さぞやいい気分でしょうよっ」

「吉冨先輩、そんな…そんな言い方って、あんまりですよ、酷すぎます」

はじめ激しい口調で吉冨を非難した上月だったが、吉冨の怒りの表情に身体を縮込ませた。

「うるさい。なによ、後輩のくせに」

吉冨は我を見失っているようだった。
危機感に詩歩は上月の前に立った。

詩歩の顔を怒りで睨み据え、吉冨が手を振り上げた。

目の奥で火花が飛んだ。
ものすごい衝撃とともに、頬が発火したように熱くなった。




   
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