恋をしよう
その6 海色の瞳


「今書いている絵は、どんな花なの?」

学校の帰り道、自転車を押しながら詩歩と並んで歩く海斗がそう聞いてきた。

詩歩は答えをためらった。
自分の書きかけの絵を思い返し、海斗から顔を隠すように頭をかしげて俯いた。

うっすらと頬が染まってゆくのをとめられない。
詩歩は、水で濡らしたハンカチを、そっと腫れていない方に当てて、頬の赤みを隠した。

彼女の絵には、彼女の心が映る。

絵から流れてくるものを、詩歩は受け止めた。
受け止めざるを得なかった、それは自分の心なのだから。

あの絵の中には、海斗への愛がある。

今書いている絵は見せられない、彼は詩歩の思いをたやすく感じ取るかもしれない。

海斗は詩歩に遠すぎる。
こんなに側で彼を見つめていられる現実に、ただ感謝し、いまは時を過ごすだけだ。

「詩歩?」

「…青い花」

本当は海をイメージした花だった。
だが、海斗に向けて、海と言う言葉はどうしても使えなかった。

書き始めたときは、空を思って書いていた。なのに…

「青?想像の幅が広いね。何を題材にしてるの?…空、それとも海?」

詩歩の歩が、思わず止まった。

海斗がじっと見つめてきた。
だが、海斗はいつものようには微笑んでは来なかった。詩歩はどきりとした。

海斗は視線を落として、また歩き出した。

「詩歩」

しばらく歩いてから海斗が呼びかけてきた。
詩歩はほっとして彼に顔を向けた。

「…名前、呼んでくれないね。僕の」

「あ…」

「苗字でも呼んでくれない」

約束したから苗字では呼べない、だが名前で呼ぶことは…

詩歩は、唇を噛んだ。
誤解にしても、多くの嫉妬をまともに受けることはやはり怖かった。

自衛…
怖れが勝っていることを、詩歩は恥ずかしく思った。

詩歩は俯いて唇を開いた。そして微かな声で呟き始めた。

「海斗、海斗、海斗、海斗…海…」

詩歩は、呟きをとめて、海という響きを心で味わった。

「か…い」

不思議に心にぴたりとはまった。

「海」

詩歩は繰り返し響きを楽しみ、笑みを浮べて海斗に向いた。

「海…って、呼んでも、いい?」

海斗の瞳が不思議に揺れた。
詩歩は、目を見開いた。
彼の瞳に、一瞬青い光が見えた。

海斗が詩歩の片頬をじっと見つめてきた。

「腫れ、明日には引くといいけど」

「あっ、忘れてた」

詩歩は慌てて、腫れた頬をハンカチで押さえた。


「家のひとには、なんて言うつもり?」

詩歩の家の前に着き、自転車に積んでいた彼女の鞄を手渡したあと、海斗が詩歩の頬を指差してそう聞いてきた。

「正直に…。不自然なこと言って、かえって心配かけたくないから」

「それがいいよ」

「詩歩ちゃん。お帰りぃ」

声に振り向くと、自転車に乗った叔母が十メートル後方から手を振っている。
笑みを浮べて勢いよく手を振りすぎたおかげで、自転車が左右にふらふらと揺れた。

「真理さんっ、危ないから」

「大丈夫、大丈夫」

詩歩の真横に辿りついて、真理は自転車を降り、あまり大丈夫ではなかったらしく、ほーっと安堵の息をついた。

自転車の前後の荷台は荷物でいっぱい。
おまけにハンドルの両側にまでティッシュの箱が下げられている。

「車があるのに」

「ダメダメ、人間甘えだしたらきりがないもの。それに自転車乗るのって、気分いいのよ」

「気分がいいのは行きだけのことじゃ?」

「人生にはスリルがなくちゃ。…ところで、この素晴らしく素敵な殿方は…詩歩ちゃんの…」

「友達」
目をきらりと光らせた真理に先回りして詩歩は答えた。

「あ、そうお? はじめまして、詩歩ちゃんのお友達さん」

「はじめまして、保科海斗です」

「海斗君。いい男には、いい名前が…」

「真理さんってば」

「ところで、詩歩、その頬は? さては麗しの君、海斗君を挟んで、女の修羅場をくぐってきたか?」

驚くほどずばりと真実を当てられ、詩歩は息が詰まった。
目を丸くして固まった姪っ子をまじまじと見て、真理までが目を見開いて驚いた。

「マジっすか?海斗君?」

真理は詩歩の頬っぺたを指差し、海斗に向いた。

「詩歩に説明を拒否されたので、聞いていませんが…それに近いことなのかもしれません」

「ち、ちがうっ」

「でも、指の痕」

真理が詩歩の頬をぷくんと差した。たしかにその腫れは、手の形に浮き出ている。

「いたた」

「まあ、…修羅場もひとつの経験ってことよね。…ところでお茶でもいかが?海斗君」

「ありがとうございます。でも、今日のところは帰ります。僕がいては、詩歩が休まらないでしょうから」

「海斗君、嬉しさ、喜びは、癒しよ」

「僕の存在が…」

真理がうんうんと頷いた。

「真理さんってばぁ」

詩歩は恥ずかしくてたまらなかった。
真理はひどい勘違いをしている。

「詩歩、朝は何時くらいに家を出る?」

「えっ? かっ、かっ…」

どうしても名前が呼べない。
海斗がそんな詩歩を、含みのある笑みを浮べて見つめてくる。

「花に見惚れて我を忘れなかったら、八時前くらいには家を出てるわ」

詩歩の代わりに、真理が思い出し笑いしながらそう答えた。
真理のひょうきんな笑い顔に、海斗が苦笑した。

「判りました。それじゃ詩歩、名前を呼ぶ練習しといて。今夜の電話で成果を聞かせてもらうから。それでは真理さん、お邪魔しました」

「ふふ。次はほんとうにお邪魔してってね、海斗君」

「はい。必ず」

そう言いながら、爽やかな笑みを見せつつ自転車にまたがった海斗は、あっという間に角を曲がり見えなくなった。

「で、今夜の電話って?」

瞳に好奇心の星を宿した真理に、詩歩はがっちりと肩を押さえられた。




   
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