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その1 拒まれたままの変化
居間のひとり掛けのソファに座って、壁に掛けられている絵を黙したまま見つめていた海斗は、ため息を耳にして、父親に振り返った。
彼の隣の椅子に座っている父の光一郎は、海斗の視線に気づかず、壁の絵を、憂い顔で見つめている。
海斗は父から視線を外し、彼もまた絵に見入った。
詩歩の描いた『天国の花』は、彼に何かしら語りかけてきてくれる。
たぶんそれは、母の無言のささやきなのだろう。
彼の家族もまた、なにかしら、この絵から母の声を聞き取っているようだった。
父はいま…何を聞いたのだろう…?
夕食の片づけを終えた祖母が、姉の唯とともに居間に紅茶を運んで来てくれた。
「今年のクリスマス、例年通りでよろしいわね?」
紅茶を飲んでくつろぎながら、祖母が少し早口に言った。
その祖母の声には、不安が混ざっているように海斗には聞こえた。
毎年イブの夜は、馴染みのレストランで過ごしてきた。
母が亡くなった年も例外ではなかったし、もちろん昨年もそうだった。
クリスマスまで、あとひと月。
祖母は恒例の行事を、これまで通り、家族水入らずで過ごしたいのだろう。
だが…
「母さん、すでにレストランに予約してしまったんですか?」
思案顔で父が言った。
父の反応はもっともだろう。
今年は昨年までと事情が違う。
いま、姉には婚約者という存在がある。
海斗は祖母を見つめて眉を曇らせた。
祖母は怖いのだ。
いつも通りのクリスマスイブの夜を過ごしたいのに、そうでなくなることを受け入れたくないのだ。
「相沢君は…その…どうするのかな?唯」
海斗は、この話題を口にすることに気後れしている様子の父に視線を向け、問われている姉に視線を向けた。
祖母は、イブの夜は相沢の家族と過ごすと姉が言い出すのではないかと、気が気ではないようだ。
海斗は内心ため息を付いた。
祖母の気持ちは分からないでもない。
だが、事情は変わってゆくのだ。
いつまでも、家族4人のディナーを続けられはしない。
もちろん、父も祖母もそのことは分かっている。
だからこそ、せめて今年はという思いを抱いてしまうのかもしれない。
「まだ、イブの夜のことは、何も話していないから」
祖母の顔がぱっと明るくなった。
「それなら、お互い、それぞれの家族と過ごすというので構わないのじゃなくて。私たちのディナーに相沢さんをお呼びしたいところだけれど、それでは相沢さんのご家族に申し訳ないですものね」
「あ…それは…その」
困ったように姉は呟いた。
姉も、祖母の気持ちが分かるだけに、口にし辛いのだろう。
海斗は手にしていたカップをテーブルに置き、口を開いた。
「婚約者がいるのに、イブの夜を、ふたりがバラバラに過ごすなんて、考えられないと僕は思うけど」
海斗の言葉に、祖母は苦いものを飲み込んだような顔になった。
「あら、でも、ほら、次の日のクリスマスに過ごせばよろしいのじゃなくて…ねぇ、光一郎?」
突然話しを振られた父親は、祖母から娘に目を向けて、コホンと咳払いをした。
「あ、うん。まあ、とにかく一度、相沢君をこちらのディナーに招いてみてはどうかな」
「そう…?」
祖母は、不服そうに曖昧に呟いた。
「はい。そうしてみます」
姉はそう言ったが、こちらはずいぶんと弱りきった顔をしている。
3人は、それぞれの思いを抱いて黙り込んだ。
孫の唯を手放したくない祖母の思いは、かなり強いようだった。
海斗はそんな家族の様子を見つめながら、残りの紅茶をコクリと飲み、詩歩の絵を見つめた。
…母さん、おばあ様は、難関のようだよ…
絵の中にいる母は、彼に何も返事を返してこなかった。
どうやら、天国にいる母も、この事態に憂えているようだった。
風呂から上がってすぐ、海斗は、姉の部屋のドアを叩いた。
肩にタオルを掛けた彼は、タオルの片端で、まだしっとり濡れている髪を無造作に拭った。
「はい?」
「僕だけど、いまいい?」
「どうぞ」
姉の部屋は、海斗の部屋と違って、ずいぶんと良い香りがする。
十畳ほどの部屋の片側にベッドが置いてあり、幅広の机がすぐ隣にある。
入り口のすぐ右側には、電子ピアノ、そしてその側に、背の低い小さな藤のテーブルと椅子がある。
静かで控えめな姉らしい部屋。
この部屋に、相沢氏はまだ入ったことはないはずだ。
婚約者なのに…
「海斗、どうしたの?」
部屋の中を見回していた海斗は、姉に問われて首を小さく振った。
「いや、いい香りがするなと思って」
「そう?なんの香りかしら?」
「香水かな」
「そう?」
姉は香りの元を探ろうとするかのように、きょろきょろと自分の部屋に視線をさまよわせた。
「座ってもいい?」
「あ、もちろん。どうぞ」
海斗は藤の椅子に座り込んだ。
藤の椅子から、軋むような微かな音がして、それが妙に自然で耳に心地よかった。
「イブのことだけど…姉さんはどうしたいのかなと思って」
「どうって…」
机に向かっていた姉は、椅子を回してこちらに向いた。
「相沢さんが、私たちのディナーに来てくれたらいいかなって…思ってるけど…」
「それって、姉さんのホントの気持ち?」
「えっ?」
「相沢さんと、ふたりきりで過ごしたいとか思わないわけ?」
「そ、そんなこと…だって、そんなの…おばあ様が淋しがるわ」
「保科家のディナーに相沢さんを招きたいというのは、おばあ様の気持ちを考えてのことで、姉さんの本心じゃないってことなんじゃないの?」
「わ、私も…家族みんなと過ごしたいわ」
それは確かに、姉の本心の一部ではあるのだろう。
それでも海斗は、姉の答えに、いささかがっかりした。
姉は、もっと大人になるべきだ。
「それじゃあ、相沢さんはどうなるのさ?」
「だから相沢さんは…私たちと一緒に…でも、彼も、彼のご家族と一緒に過ごしたいかもしれないし…」
つまり姉は、自分が相沢氏と二人きりで過ごすという選択肢も、彼の家族と過ごすという選択肢も、初めから外しているわけだ。
「気の毒だな」
「気の毒って…だ、誰が?」
「分かってると思うけど…」
姉は海斗の顔を見つめて、ぐっと唇を噛み、気まずそうに視線をそらせた。
「だって…」
「姉さんたち、婚約して何ヶ月経ったのさ」
「え?…ろ、六ヶ月…くらい」
なぜかわからないが、海斗は憤りに駆られた。
「姉さんは、もっと相沢さんの気持ちを考えた方がいいよ」
海斗はそう言うと、立ち上がり、すぐにドアに向かった。
「か、海斗?」
「姉さんも、おばあ様と一緒だ…」
「海斗」
彼は、冷ややかな眼差しで姉を見つめた。
「いまの生活を…いや、いまの自分を変えたくないんだよね。姉さんは…」
「そ、そんなこと…」
「変えるのが怖いから…いまのままでいたいと思ってる。僕は…相沢さんに同情するよ」
静かな口調でそれだけ言うと、彼は姉の部屋を出てドアを閉じた。
自分の部屋に戻った海斗は、ベッドに仰向けに転がった。
なんともやりきれない気分が、胸に渦巻いていた。
海斗は相沢氏を、それなりに気に入っている。
相沢氏本人は、そうと感じていないかもしれないが…
相沢氏の行動力には一目置いているし、彼の性格も面白い。
話していて、ひとを飽きさせない話術を持っているひとだ。
そしてなにより、彼の姉唯を、これ以上ないほどに愛してくれている。
煮え切らない態度を取り続ける姉に、海斗はひどいもどかしさを感じるし、同じ男として、相沢氏が気の毒になる。
海斗と詩歩の場合は、まだ高校生同士なのだから、親たちの干渉は仕方がないことだろう。
もちろん、詩歩を求める気持ちがないわけがないが…それどころか増すばかりだけれど…それを押さえる事も、いまの海斗にとっては、試練なのだと受け止めている。
だが、お互い成人しているうえに、婚約して半年…
海斗なら、周りの状況がどんなであろうと、我慢などしない。
その我慢を強いられている相沢氏…
あの行動力と率直な性格の彼にとって、この事態は耐え難いに違いない。
海斗は横になったまま、壁に掛けてある詩歩の絵を見つめた。
彼のために、海斗を思って詩歩が描いてくれた絵…
無限の青が、この中には塗りこめてある。
ひとは変わってゆくことに抗っちゃいけない…そうじゃないのか?
海斗は心の中で、その絵に話しかけた。
…なら、君が動けばいいだろう?
僕が?
海斗は、顔をしかめて考え込んだ。
確かに、誰かがなんとかしてやるべきなのかもしれない…
このままでは、相沢氏があまりに気の毒だ…
祖母は仕方がないとしても、姉は相沢氏のために、まず自分が変わろうとしなければならないのに…
海斗は姉に対して、ひどい落胆を感じた。
「姉さんには…がっかりだな」
海斗は、はっきりとそう口にすると、ふっと息を吐いた。
静かな夜の中、海斗のその言葉は、彼の部屋のドアの前に立って、いままさにドアをノックしようとしていた唯の耳に届いていた。
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