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その3 もどかしさのわけ
「今日は…何かあるんですか?」
助手席に座っている唯に、遠慮がちにそう問われ、運転している成道は、視線をちらりと唯に向けた。
年末の忙しいこの時期、見通しが立たないほどの仕事を抱えている。
連日残業していたのに、今日は残業せずに帰ることにしたから、その理由が気になるのだろう。
これも、唯が成道を気に掛けてくれているという証だとすれば、彼は喜ぶべきだろうか?
成道は知らず小さなため息をついていた。
唯と婚約してすでに半年…
親密になってゆくはずのふたりは、親密になるどころか離れて行くばかりのような気がしてならない。
唯の性格が内向的なのは分かっている。
それでも…もっと彼を求めて欲しいのに…
求めるのは成道ばかり…
近付こうと努力するのも成道ばかり…
そして…キスをするのも…いくぶん強引にキスをするのも…成道ばかり…
唯の受身過ぎる態度は、成道の自信をどんどん削いでゆく。
彼女は、成道を本当に好きなのだろうか?
成道と婚約したことを…彼女は後悔しているのではないのか?
婚約してしまったのに、消極的な性格から、いまさら破棄したいなどと、言い出せないだけなのではないのか?
そんな彼らしくもない暗い考えばかりに囚われてしまう。
もともと、成道が彼女に強引にキスをしたのがはじまりなのだ。
姉の尚を婚約者と偽った過去のために、いざこざがあったけれど…それが誤解だとわかって…
付き合うことになったのは、入院した成道を心配して、仕事を放り出して見舞いに来てくれた唯がいたからだ。
成道は、唯は彼のことを愛してくれていると、その時確信した。
そして彼は、ふたりの仲を確実なものにしたくて、彼に出来うるだけの迅速さで、指輪を贈り、保科家に挨拶に行った。
唯の父も祖母も、唯を溺愛している。
その愛故に、彼らは成道を受け入れたくないようだ。
たとえ婚約者という名を持っていようとも、成道は唯にとって、悪い虫だと思われているふしがある。
成道が唯に必要以上に近づけないように、ガードを固められてしまっているのだ。
そして唯は…
そのことに、成道のようには、不平を抱いていない…
ほかの何でもないその事実に、成道の心は傷ついていた。
彼はまた、知らずため息をついていた。
成道の胸に取り付いている虚しさが、激しい痛みに変わった。
彼は、突然車を路肩に停めた。
「相沢さん?あの、どうかしたんですか?」
不安そうな唯の声…
相沢さんと呼ばれたことに…それはいつものことなのに…成道の傷はさらに痛んだ。
彼は唯に上半身ごと向き、彼女の瞳を見つめた。
唯はひどく戸惑った顔をしている。
その瞳の揺れは…恐れ…だろうか?
「あの?あ、相沢さん?」
その言葉で、成道の痛みは怒りへと変化した。
「君はどうして、俺の名を呼んでくれない?」
「え?」
驚いている唯の唇に、成道は怒りに急かされるように唇を重ねた。
虚しさと痛みと、開いてゆく心の傷のせいで、くちづけは甘さを欠いた荒々しいものになった。
唇を離した時、成道の中の虚しさはさらに大きく広がっていた。
唇を手で覆った唯の目に涙が浮かんでいるのをみて、成道は自分の首を絞めたくなった。
唯を傷つけた…一番したくないことなのに…
「ごめん」
彼女は何も言わなかった。
保科の家の前で、成道は無言のまま降りてゆく唯の背中を見つめた。
一方通行の思い…
「唯」
成道は焦りを感じて、彼女に呼びかけながら、エンジンが掛ったままの車を降りた。
門の扉を半分開けていた唯が立ち止まった。
「悪かった。ごめん」
「あの…私、何か怒らせるようなこと、してしまったんですか?」
見上げてきた唯の瞳は、不安そうに揺れていた。
成道の胸が罪悪感に疼いた。
「俺のこと…」
好きか?そう続けそうになった彼は、すんでのところで言葉を止めた。
そんなことを問われては、唯の戸惑いは増すばかりだろう。
「名前で…呼ぶ方がいいですか?」
「え?」
「呼び方を変えるの…自分からはとても恥ずかしくて出来なくて…いまは呼び慣れてしまって…相沢さんがその方がいいなら…」
唯が、成道のことを精一杯考えたうえで、そう言ってくれているのが伝わってくる。
成道は、笑みを浮かべて頷いた。
「相沢さんより…そう呼んでくれた方が嬉しいかな…」
そう口にしながら、成道の眼差しは、別の問いを唯に向けていた。
君は僕が好きなのか?
「はい」
唯が笑顔で頷いた。
ちくはぐな会話…それでも彼は嬉しかった。
玄関のドアの向こうに唯の姿が消え、成道は重いため息をつき、その場を後にした。
保科家近くにある、指定された店はすぐに見つかった。
ドアは自動ではなく、アンティークな扉に良い感じで年季の入ったドアノブ。
建物はそう古くはなさそうだから、わざと古めかしく仕立ててあるのだろう。
窓も洒落ていて、贅沢にひだのついたカーテンが付けられている。
こんな店でのディナーなら、唯が喜びそうだ…
店の中は夕暮れのためか、ほんの少し薄暗く、嫌味のない豪華さのシャンデリアが店内に温かな光を注いでいた。
「相沢さん。こっちです」
凛とした良く通る声が成道を呼んだ。
唯の弟、海斗だ。
海斗の座っているテーブルに歩み寄り、成道は向かい合わせに座り込んだ。
「待たせたかな」
「いえ。いま来たばかりです」
そうは言っても、海斗の前に置かれているカップの中身は半分ほどに減っている。
「待たせたみたいだな」
成道の言葉に、海斗がほんの少し愉快そうな笑みを浮かべた。
「それで?」
コーヒーを注文し終えた成道は、自分を呼び出した海斗に問い掛けた。
「クリスマスイブのことなんです」
「イブ?」
「ええ。僕は、相沢さんを、助けるべきじゃないかと思って」
成道は眉を寄せた。
「良く分からないな。助けるって、どういうことかな?」
「その前に、ひとつ質問があるんですが」
「どうぞ」
「あなたは、姉とイブの夜を過ごしたいと思っていますか?」
成道は、顔をしかめた。
「それはもちろん、そうできれば嬉しいが…唯は…」
成道の言葉を悟ったように、海斗は小さく頷いた。
「姉には、僕もがっかりです」
思ってもない言葉に、成道は目を見開いて海斗を見つめた。
スマートに腕を組んだ海斗は、高校生らしくない成熟した思案顔をしている。
「天使みたいな消極性も、あそこまでゆくと悪ですよ」
「海斗君?」
「もどかしくてならないんですよ。ところで、姉を誘ってはみたんですか?イブの夜を一緒に過ごすことですけど」
「あ、ああ。だいぶ前に。誘ったけど、体よく断られた」
唯らしい言葉で、見事にかわされた。
二人だけで過ごしたら、それぞれの家族を、がっかりさせてしまうことになると…
「数日前のランチの時、唯から、君らのディナーに来ないかって誘われたよ」
「来るんですか?」
「いや…とても素直に応じられなくてね…それでいま、ぎくしゃく…」
成道は、言葉を止めた。
余計なことまでしゃべってしまったようだ。
「相沢さんらしくないですね。どうして、強引な策に出ないんですか?」
「ずいぶん大胆な発言だな。唯は君の姉なのに…」
「姉は変わることが必要だと思うからです。出来れば自分から…でも…」
海斗が、静かに微笑んだ。その顔に、諦めがほのみえる。
「祖母はいまさら変わりようがないだろうと思うんです。だから姉が変わるしかない。なのに姉は変わるのを怖がってる。婚約もしているいっぱしの大人なのに…」
成道は、海斗の発言に笑いが込み上げた。
海斗は唯の分まで、大人として成熟しているようだった。
「それを目の当たりにしてると…なんというのか…いたたまれないんです」
唯の消極性を、成道は美点でもあると思う。
彼女に変わって欲しくない思いもある。
「海斗君、私は、どうしたらいいと思う?」
海斗が、わが意を得たりというような、きらめいた笑みを浮かべた。
「予約してはどうですか?」
「予約って?」
「イブのディナーの予約です。この店なんていかがですか?」
話が見えなかった。海斗の狙いはなんなのだろうか?
それに、イブまで二週間を切ったこの時期…
「今頃、イブの予約なんて、もう無理だろう」
「なら、試しに予約してみたら?」
どうやら、海斗には、なんらかの確信のようなものがあるようだ。
「もし、予約出来たとしても、唯は応じないさ」
「僕が手を貸しますよ。もちろん、必ず姉さんが来ると、約束出来るわけではありませんが…どうしますか?」
「私は君に期待されてるわけだ。その期待を裏切るわけにはゆかなそうだな」
海斗が大きな笑みを見せた。
「君が成人だったらいいのにな」
「どうしてですか?」
「ともに酒を飲める」
「2年待ってください」
「2年もか…待ち長いな」
海斗は顔をしかめ、苦い笑みを零した。
「相沢さん以上に、僕が待ち長いですよ」
「早く大人になりたい時期だな。俺にも覚えがある」
「そうか」
海斗が何かを思いついたように呟いた。
成道は無言で、海斗に問い掛けた。
「この原因不明のもどかしさのわけが分かりましたよ」
「それで?」
「僕が待ち長い思いをしている先にいるあなたたちが、もたもたしてるのを、自分の立場に照らし合わせて苛立ちが湧いてたんだ」
「もたもたねぇ。言ってくれるな。だが、そう簡単じゃないんだぞ。それに君の彼女も積極的とは言いがたいようじゃないか」
「そうです。だからこそ、もどかしいんじゃないですか」
成道は海斗の言葉に吹き出した。
「それで…この店、ほんとに予約出来るのか?」
「ええ。あらかじめ、僕が押さえて置きましたから」
押さえ?
「いったいいつ?」
首を傾げて海斗は考え込んだ。
「いつだったかな?数週間前ですよ」
成道は唖然とした。
「はあ? 君、こうなること、予測してたってのか?」
海斗はなんでもないことのように、肩を竦めて見せた。
「姉さんは手強いから」
それですべて説明が付くとでも言うように言い、海斗は残っているコーヒーを上品な仕草で啜った。
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