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その5 イブの後悔
「なんかさあ、遊びきった後の掃除って、熱が冷めるよね、やっぱ」
ベッドの下に入った花吹雪を小さな刷毛で掃き出していた詩歩に向けて、唇を尖らせた美都の文句が飛んできた。
「はい、そこ。文句言わない。身体を動かす」
びしっと音がしそうなほどの迫力で、山ちゃんこと、由香里が言った。
「だってぇ」
「美都、詩歩を見てごらん、文句も言わずにやってるじゃん。あんた少しは見習いな」
「だってぇ」
「あーもう、その、だってぇは聞き飽きたよ」
詩歩は、由香里と美都のやりとりに、笑い声を転がした。
午前10時から4時間、大騒ぎの果ての散らかりようだ。
由香里が掃除を仕切っているものの、この部屋は、美都の部屋だ。
体育会系で精神力も鍛えた由香里は、きちんと物事をやらないとすまない性質で、「掃除なんかあとでぼちぼちやるからいいよ」という美都の拗ねた言葉を聞きもせず、こうして3人、パーティーの後の掃除にせいを出しているところだった。
「それにしても、すごい紙ふぶきの量」
ゴミ袋が、パンパンになるほどの紙ふぶき。これだけ切るのはさぞかし時間が掛かったことだろう。
「美都って、案外根気があったのねぇ」
詩歩は、美都に感心した声を向けた。
美都はカラカラ笑いながら、顔の前で手をブンブンと手を振った。
「わたしじゃないわよ。それうちの父」
「お父さん? わたしたちのためにこれ用意してくれたの?」
「違う違う。自分のためよ」
「はい?自分のためって…」
「夜にまた使うの。実を言うとね、これ内緒で使ったの。あ、もち、母の了解は取ったわよ」
「あんたってば…相変わらず、ちゃっかりしてんね」と呆れ顔の由香里。
「一度で終っちゃ、もったいないじゃん。父の苦労もこれで2倍報われるってもんよ。女子高生3人がおおはしゃぎで楽しんだもん。およっ、てことは、3倍の価値はあったかも」
詩歩と由香里は同時に爆笑し、その後美都も混ざり、3人は延々と笑いこけた。
確かに楽しかった。
紙吹雪は大騒ぎには持って来いのアイテムだ。
「ね、ふたりとも、少し持ってったって分かんないんだから、今夜サプライズで、ぱーっと派手にやらかしてさ、みんなを驚かしてやりなよ」
「あ、それいいかも。詩歩もらって帰ろうよ。美都、袋用意して、袋」
「オッケー」
美都はパーティーの余韻が覚めやらぬ様子で、跳ねながら部屋を出て行き、ビニール袋を持って戻って来た。
由香里は自分の分を詰め、美都は詩歩の分を詰め始めてくれた。
「そんなにいっぱい…美都のお父さんに悪いわ」
詩歩は遠慮しつつ申し出たが、美都ははじけそうなほどに膨らんだ袋を詩歩に差し出してきた。
「あ、ありがとう」
必要ないからいらないとは、とても言えなかった。
詩歩は、海斗との約束の時間より少し早めに、待ち合わせの駅前に向かった。
美都の家から駅までは歩いて5分ちょっとの距離で、由香里も一緒だった。
「これ、目立つね」
手に持っている紙吹雪入りの袋を揺らして、由香里が渋い顔で言った。
たしかに、色とりどりの切り刻んだ紙が入れられた袋はカラフルで、ずいぶんと目立つだろう。
「まあ、いいけどね。今夜のお楽しみだし…詩歩もパーッとやりなよ」
「あ、うん。山ちゃんもね」
「家族がどんな反応するか、いまから楽しみだよ」
嘘の苦手な詩歩は、曖昧に微笑んだ。
真理と父は結婚式で、今夜一晩いないとは言えなかった。
それを知れば、由香里と美都のふたりともが、詩歩に自分の家のパーティーに来いと誘ってくるに決まっているからだ。
だが、そんな無遠慮な真似は出来ない。
「それで?ふたり、これからどこに行くの?」
「うん。ゲームセンターで遊んで、それから、森画伯の個展に…。森先生に招待状をいただいたの」
「森先生の個展は分かるけど…保科がゲームセンターねぇ。そういうとこ行く雰囲気じゃないけどね、保科」
「海、テレビゲーム得意よ。真理さん、いつも負かされて悔しがってるくらい」
「へーっ、あの真理さんに勝つとは、侮れないじゃないの、保科海斗。今度お手合わせ願うかな」
由香里は片手を拳に固め、パンパンと打ち鳴らした。
由香里もかなりテレビゲームがうまい。ふたりはきっといい勝負かもしれない。
「詩歩」
駅のロータリーのところで立ち話をしていた詩歩は、海斗の声に顔を上げ、目を丸くした。
「か、海…どうして?」
見知っている車の運転席に、海斗がいた。
「今日だけの約束で、父が貸してくれたんだ。乗って」
夏休みに免許を取得した海斗だが、車に乗せてもらうのは初めてのことだ。
「保科、大丈夫なの?」
由香里は、助手席の窓から顔を突っ込むようにして海斗を茶化した。
「家族の送り迎えなんかで、頻繁に運転してるから…家族以外を乗せるのは初めてだけどね。大切な詩歩を乗せるんだから、いつも以上に注意して運転するよ」
由香里がおかしそうに笑った。
「大切な詩歩ね。相変わらず取り澄ました顔で、甘いこと言うね。…ほら、詩歩乗らなきゃ」
彼女は由香里に背を押されて、助手席に乗り込んだ。
「山ちゃん、今日はありがと。楽しかった」
助手席の開いた窓枠に両手の指を掛け、詩歩は由香里に言った。
「うん。わたしも楽しかった。それじゃ、ふたり楽しんでね」
車が滑るように走り出し、詩歩は遠ざかってゆく由香里に手を振った。
ゲームセンターは、若者でごった返していた。
器用な海斗は、いつも通りに、ぬいぐるみやストラップをたくさん収穫し、詩歩はたまたまの幸運で、小さなひよこのついたストラップをひとつだけゲットしていた。
幸運の塊は、海斗のたっての願いで、彼の持ち物になった。
もちろん、詩歩は海斗が手に入れたもののほとんどをもらった。
「真理さんにも分けてあげなきゃ」
「お父さんにもあげたら?きっと、喜ばれるよ」
真面目な性格の父と、可愛らしいグッズの取り合わせを考えると笑ってしまうが、たしかに喜ぶに違いない。
「うん。そうする。…海も、みんなにあげるの?」
海斗は、よっつ残している。
姉の唯には、二つあげるのだろうか?
「うん。みんなにひとつずつ。こいつは相沢さんにあげるつもりなんだ」
彼は、黒い猫のついたストラップを、指先にプラプラさせながら言った。
首のところに赤いリボンがついている。愛嬌のある顔だ。
詩歩は、こくこくと頷いた。
海斗は、姉の婚約者の相沢氏がとても好きなようだ。
それがなんだか、詩歩はとても嬉しかった。
相沢氏には、詩歩も数回逢ったことがある。
海とはまた違った雰囲気の、とんでもなく顔立ちのいい男の人だ。
海斗、唯、相沢氏の3人並んでいた様は、なんとも壮観だった。
そして詩歩は、海斗に対してなのか、誰に対してなのか、自分の存在がひどく申し訳ないような気分に囚われた。
もちろん、そんな内情など、海斗には絶対に言えないが…
画廊での個展は、思ったよりも人が多かった。
ふたりが受付をしていると、すぐに森氏の方から近寄って来てくれた。
画伯は、ふたりがいた間、画廊の絵を説明して回ってくれた。
「森画伯の絵は、やはり勢いがあるな。小さなものでも、大きなものと遜色ないほど力が感じられるし…」
「海斗も、森先生の絵が好きなのね」
「眺めていると、元気が出てくる。…絵というのは不思議なものだね。詩歩の絵は心に癒やしを与えてくれるし…画家によって伝わるものが違う」
「弾く人によってピアノの音色が違うことや、作るひとによって料理の味が違うのと同じね」
「そうだね。ひとはみんな個々の創造の力を持っているんだろうね。秀でたもののない僕にも、何かあるのかな?」
詩歩はその発言に、思わず目を丸くした。
「海が自分に秀でたものがないなんて言うのはおかしいわ」
「どうして?僕は詩歩みたいに素晴らしい絵が描けるわけではないし、特別ピアノがうまいわけでもない」
彼女は笑いが込み上げてならなかった。
海は、存在そのものが特別なのに…
光り輝く人…海はそういう稀なひとなのだ。
「君が笑うような、僕は何を言ったかな?」
詩歩は笑みを浮かべたまま、その問いに答えなかった。
海斗はそんな詩歩に苦笑をみせ、車を発進させた。
「運転、うまいわ」
海斗が運転しているというのは、やはり不思議な感じだ。
そして、海斗だけ先に大人になってしまったような、彼女だけ置いてけぼりにされたような思いに駆られる。
「卒業したら、いくらでも乗せてあげるよ。これまでより、遠くに遊びにゆけるようになるのが楽しみだな」
すでにふたりとも、海斗の父が教授をしている大学への進学を決めている。
新しい環境は不安だけれど、それも慣れるまで…
「着いたよ」
車は詩歩の家の前に着いた。
すでに外は薄暗い。
彼女は荷物を取りまとめて、車を降りた。
「海、今日はありがとう。楽しかった」
「うん。僕も…詩歩…」
「はい?」
海斗の瞳が、何かを語りたがっているように思えて、詩歩は彼の言葉を待った。
けれど、海斗は首を振って、「なんでもない」と言った。
「それじゃ」
「海、楽しいイブを過ごしてね」
「…君も」
詩歩は、思わず一瞬躊躇し、こくりと頷いた。
海斗の車が見えなくなるまで詩歩は見送り、カギを開けて家の中に入った。
もちろん、家の中は無人だ。
送って来てくれた海斗が不審に思わないように、出掛ける前に居間の電灯はつけてあった。
玄関で靴を脱いで上がった詩歩は、突然とんでもなく冷たい淋しさに襲われた。
真理には、海斗の家のディナーに行くことになったと嘘をつくことになってしまった。
でも、ずっと海斗に打ち明けようと思っていたのだ。
…けれど、恥ずかしさが勝ち、結局、言い出せないまま今日を迎えてしまった…
詩歩は息を吐き出して、淋しさを追い払おうとした。
人気のない家はシンと静まり返り、そのせいで寒さの度合いが増しているように感じられた。
彼女は急いで居間に行き、暖房をつけた。
父と真理とともに飾りをつけた大きなツリーを眺めているうちに、詩歩の目に涙が浮かび上がった。
この現実を選んだのは自分なのに…
自分を責める気持ちが、むくむくと大きくなってゆく…
彼女は壁に掛けてある自分が描いた天国の花の絵を見つめた。
何か…救われる様な何かを、母が言ってくれるかもしれない。
絵は思いやりを発していたが、何か言ってくれる気配はなかった。
「母さん。わたし…」
視界が完全にぼやけ、彼女は乱暴に瞼をこすった。
もう寝てしまえばいい。
明日になれば、海斗たちと遊園地だ。
居間から出た詩歩は、玄関先に置いたままだった荷物を手に取ろうと腰を屈めた。
美都からもらった紙吹雪が目にとまった。
彼女は衝動に駆られ、その袋を手に掴み、袋を破いて中身を掴んで天井に向けて放り投げた。
詩歩の周りで、紙吹雪は盛大で楽しげに舞い散ったけれど、彼女の心は少しも躍らなかった。
彼女はその場にしゃがみこんで、泣きじゃくった。
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