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その3 天使の心
「まあ、また淀川先生のオハコね。ほんとにどこでも寝られる、このひとの神経の図太さには脱帽だわ」
沢村は眠りこけている淀川に向けて、ぶつぶつと悪態をついたものの、無理に起こすつもりはないようだった。
彼女は手にした品物を机の上にそっと置き、まだドアの入り口にいる海斗に向いた。
「それもここに置いて。そっとね」
海斗は指示されたとおりに、抱えていた二つの布にくるまれたものを並べて置いた。
「美術部からは予定通り4枚ね。オークションに出すのは二枚ということだったから、保科君が持っている二枚をお願いするわ」
渡会のものは、沢村が持っているはずだ。
「この二枚ですか?渡会さんの絵は?」
「彼女から、彼女の絵はオークションでなく展示にして欲しいと頼みこまれたのよ」
「どうしてですか?」
「性格が控えめ過ぎるのよ。表舞台はどんなものでも苦手みたい。彼女、いつでも隅っこにいて、空気と同化しようとしてるように思えるわ」
「なんとなく彼女の雰囲気がつかめましたよ」
「そう?」
沢村が悪戯っぽく笑い、彼はその笑みに含まれたものに興味を引かれた。
海斗は窓の外に視線を向け、中庭を挟んだ校舎の三階、美術室のあたりを見つめた。
「森氏から、渡会さんの絵に一万円の最低落札価格を提示するように申し付けられたんだけど、渡会さん本人からは、価格はつけないで欲しいって懇願されたわ。もともと予想してたことだけど…」
「そうですか」
海斗は聞く耳半分で返事をした。
彼は、美術室の開け放った窓際に肘を突き、身動きひとつせず外の一点をじっと眺めている女生徒に心を向けていた。
「値段なんかいくらでもいいんですって、この絵は行くべきところを知っている筈だからって…」
「そうですか」
「保科君、それじゃ絵を確めて…番号をつけるんでしょう?」
「そうですか」
「保科君?どうしたの?上の空ね。いったい何を見てるの?」
海斗は沢村に顔を覗きこまれてやっと我に返った。
「え、いえ、何も」
海斗が見つめていた方向へと顔を向けようとする沢村に気づき、海斗は急いで呼びかけた。
「沢村先生」
「何?」
沢村が海斗の方に振り返り、彼はほっとした。
「オークションに出すのは…この二枚でしたね?」
「ええ、そうよ」
海斗は自分が抱えてきた二枚の絵に掛けられた布を外し、中の絵を確めた。
大きな額は風景画、もうひとつの小さめの額は花の絵だった。
風景画の彩りはやさしく、心を和ませてくれる。
花の絵は、薔薇の花と豪華なレースが細部までキメ細やかに描かれいて、小さな作品だが奥深く見ごたえがあった。
「どちらもいいですね」
「ええ。良い仕上がりだわ。その二枚とも三年生の作品よ。あと、これも」
沢村が布を開いて見せた小さな作品には、山の頂が描いてあった。
構図も筆の技巧のうまさもまずまずなのだが、小さすぎるからか、偉大なほど大きなはずの山は、ミニチュアのおもちゃになってしまったような印象が拭えない。
「それが…渡会さんの?」
「違うわ。これは三年生の作品と言ったでしょ?渡会さんは二年生よ」
「そうだったんですか」
沢村は最後の一枚を大切そうに抱えて、海斗に見えないように布を外し、自分だけ絵を眺めて眩しげに目を細めた。
「先生、じらさないで僕にも見せてください」
「ちょっと待って。一番いい状態で見せてあげたいのよ」
絵を抱えたまま、沢村は窓辺に歩いて行った。
日差しの位置を確めて立ち場所を決め、海斗に向いた。
沢村の顔はひどく楽しげに輝いている。
「では、どうぞ」
絵が海斗に向けられた。
やりすぎのシチュエーションに呆れていたのに、海斗は息を止めてその絵に見入った。
海斗は幾度も瞬きを繰り返した。
光の具合なのか、絵の色合いが動いているように見えるのだ。
「…僕の目がおかしいのかな?」
「見えるみたいね。不思議でしょう?近付いてみて」
海斗は言われるまま絵に近付いて行った。
絵は、近付くひとの気配を感じたかのように、そっと動きを止めたように思えた。
動から静へと動きを止めてもなお、絵の彩りは躍動感のある命を伝えてくる。
「綺麗な色だ」
綺麗と言う言葉など稚拙に感じるが、他に相応しい言葉が見つからなかった。
「瑠璃色…ね」
「瑠璃…」
そう口にした海斗の胸に、息が詰まるほどの悲しみと切なさが押し寄せた。
彼はゆっくりと息を吸い、込み上げるものを、胸に力を入れてぐっと押さえ込んだ。
「彼女は…天国の声が聞けると言いましたね」
「ええ。魂の声でもあるんですって。保科君、魂は永遠なんですってよ。人の心の数だけでなく、魂の数だけ天国はあるって…」
「渡会さんが、そう言ったんですね」
「ええ。…彼女は、天使の心を持ってるのよ、きっと」
天使…
「さあて、そろそろ失礼するわ。渡会さんがこっちの世界に戻ったか気になるし…」
沢村が冗談と分かる口調で言い、くすくす笑った。
「それじゃ、あとはお願いね」
海斗は無言で頷いた。
沢村は、平和な空間を作って眠りこけている淀川にちらりと視線を向けると、小さな笑いを浮べて部屋を出て行った。
閉まったドアを見つめていた海斗は、誰かの視線を背後に感じて振り返った。
淀川はまだ寝ている。他にひとはいない。
海斗は床に落ちている一枚の紙に気づき、屈み込んで拾い上げた。
どうやら、沢村が置いていったものらしい。
絵の作者の名前と題名が書いてあった。
渡会詩歩。天国の花…
海斗は、故意に意識から外していた瑠璃色の絵を、改めて見つめた。
その絵の中から、誰かが見つめ返しているような気がした。
ひどく懐かしい眼差しで…
それは強烈な感覚だったが、とても温かくてやさしいもので、彼の全身を包み込むようだった。
海斗はガクガクと肩を震わせた。
押さえ込んでいたものが、強硬だった仕切りを破壊して海斗を襲う。
怒涛のごとく流れ出る思いに、涙が頬を伝い落ちた。
母が死んだとき以来、初めて流す涙だった。
絵には彼の母が在り、涙を流すほどに、心は母の温かさで満ちてゆく。
この絵は彼の心を癒すためにだけ、この世に創られたものなのだということを、海斗は心で感じていた。
「保科、全部終わったか?」
彼の涙が止まったのを見計らったように、淀川がそっと声を掛けて来た。
いつもの淀川にはない口調だった。
もしかすると淀川は、涙する海斗のことをずっと見守っていたのかも知れない。
「終わりました」
海斗は振り向かずに答えた。
彼の目は窓の外の一点を見つめていた。
「そうか」
「はい」
だが、始りでもある…
美術室の部屋の窓越しに、沢村が姿を現したところだった。
海斗の眼差しの中に捉えていた女子生徒の肩に、沢村の手がそっと置かれた。
遠目で女生徒の顔は判然としないが、海斗には彼女が浮べた温かな笑みが見えたような気がした。
End
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