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その2 必要なきっかけ
今日はことのほか寒いな。
鞄を右肩に担ぎ、家から出た海斗は、顔に吹きつけてくる風の冷たさに顔をしかめた。
コートの襟を立て、首筋にあたる風を避けるが、指先がひどくかじかむ。
駐車場の自分の車に駆け寄り、海斗は機敏な動作で乗り込んだ。
風の当たらない車内に入り、ホッと息をつく。
今日は一時限から講義。
詩歩も講義があるのなら、迎えに行くのだが、今日、彼女は二時限からの授業だ。
これだけ寒いと、バスと電車を使ってでは可哀想なのだが、残念ながら彼は迎えにいってやれない。
海斗の車の隣には、父の車がある。
父は今日、ゆっくりと出勤らしい。
詩歩のことを頼めば、父は快諾してくれるんだろうが…
海斗の父が迎えに行くだなんて、詩歩は嫌がるに違いない。
だいたい、彼女の叔母の真理さんが、大学まで送るという申し出すら、申し訳ながって断るくらいなのだ。
もっと、甘えてくれればいいのに…
もちろん、一番甘えて欲しいのは、彼なわけで…
彼女のお願いなら、僕は無条件に、なんでも言う事を聞いてしまうだろうな。
海斗は自分をくすくす笑いながら、車をスタートさせた。
もうすぐクリスマスだ。
イブには、色々と計画を立てていたのだが、柏井と矢島のせいで、大学で催されるクリスマスパーティに参加することになり、計画は半分に縮小することになってしまった。
あのふたりときたら、大学に入っても、高校のときと同じように、いろんな催しごとに首を突っ込みたがって困る。
まあ、矢島は柏井に振り回されている感はあるが…
ふたりだけで盛り上がって楽しんでいるなら別にいいのだが、たいがい海斗と詩歩を巻き込むのだ。
大勢が集うパーティなんかより、詩歩とふたりきりでイブを満喫したかったのに…
ため息を漏らした海斗だが、詩歩のきらめく瞳を思い出し、無意識に頬をゆるめた。
彼女はクリスマスパーティを純粋に楽しみにしているようだし…
パーティ参加ということで、彼女もドレスを着ることになるわけだ。
それについては、海斗も楽しみではある。
いったいどんなドレスなのだろうか?
彼女には、淡い色のものが似合うと思うのだが…
海斗は、頭の中で綺麗に着飾った詩歩を思い浮かべ、笑みを浮かべた。
講義室に入った海斗は、無意識にいつもの席に足を向けたが、そこにはすでに先客がいた。
女子学生が座っている。
もちろんそこが彼の席と決まっているわけではないが…
海斗はさっと室内に視線を飛ばした。
彼に向かって手を上げる人物がいる。
宮島大成だ。
世間的には背が高い海斗の上をいく大男だ。
海斗は、軽く手を上げ返し、宮島に歩み寄っていった。
「保科、おはよう」
「おはよう、矢島は?」
「まだみたいだな。彼は、いま忙しいみたいだからね」
「パーティのチケットか、まだ売れ残っているのかな?」
「チケットの方は、目標を超えたらしいよ。準備で忙しいみたいだ」
「そうか」
「君の彼女も参加するって聞いたよ。渡会さんだったかな。会うのが楽しみだよ」
宮島の言葉に含みはない。けど、海斗の本心は、宮島を詩歩に会わせたくない。
宮島はいい男過ぎるのだ。 ルックスも性格も。
もしも…と、考えてしまう。
もしも詩歩が、海斗よりも宮島を好きになってしまったら…と。
そして、そんなことをマジに考える性根の腐ったような自分が嫌でしかたない。
「宮島、君はひとりで参加するのか?」
チケットを、矢島から売り付けられたことはすでに聞いている。
「いや」
その返事に、海斗はほっとして「彼女かい?」と問いかけた。だが、宮島は首を横に振る。
「知り合いの…中学生の女の子なんだ」
「中学生? 中学生を大学のクリスマスパーティに同伴するつもりなのか? 宮島、場違いすぎるんじゃないか?」
海斗の言葉に、宮島は困ったような顔になった。
「そ、そうかな?」
「アルコールも出るんじゃなかったか?」
「まあ、早いうちに出かけて、早々に連れて帰ることにするよ」
宮島は、照れ笑いをしつつ頭を掻く。
「チケットを二枚押し付けられて余っていたし…彼女、とても行きたいようだったから」
「宮島。君、本当に彼女はいないのか?」
「残念ながら…」
海斗から目を逸らし、宮島は呟くように答える。
その表情は、海斗の目には、哀しげな色があるように映った。
好きな女性でもいるのだろうか?
だが、思いが届かないとか?
「好きな女性がいるのかい?」
「えっ? …な、なんだ、保科、唐突に」
動揺を含んだ宮島の反応を見て、海斗は自分の想像はあながち間違いではないらしいと悟った。
「淀川先生、どうして僕を呼んだんですか?」
高校の時の恩師である淀川のひとり住まいのキッチンに立ち、海斗は淀川に声を潜めて問い正した。
「どうしてって…ひさびさ、お前の顔が見たいと思っただけだぞ。他に他意はない」
彼と同じく潜めた声で、淀川はきっぱりと答える。
海斗は鼻白んだ。
何が他に他意はないだ。
恩師である淀川の澄ました顔を見て、海斗は顔をしかめた。
淀川の雑然とした居間には、淀川と同じ高校の美術教諭である沢村がいる。
そして、テーブルの上には、クリスマスを祝う、クリスマスケーキとご馳走の数々。
「ふたりでよかったじゃないですか? なんで僕を呼び出すんです」
「なんでって、大勢いたほうがパーティは楽しいに決まってるだろ」
「そういうことじゃないでしょう。完全に僕は、この場のお邪魔虫じゃないですか」
「おい保科、言っておくが、お前がお邪魔虫になるようなことは、絶対にないぞ」
淀川は、熱を込めて力説しはじめた。
「は?」
「お前ほどオーラを放ち、場を華やかに盛り上げる男はいない」
「淀川先生…先生は、単に沢村先生とふたりきりなのが気まずかっただけでしょう?」
淀川教志郎。
まったくわからない男だ。
好きな女性とふたりきりになるのが照れくさすぎて、教え子を呼び出すなんて。
火急の用といわんばかりの電話をしてきて…
淀川と楽しもうと、ケーキやご馳走を抱えてきた沢村先生があまりに気の毒。
しかしあれほど綺麗な女性なのに、なんで好き好んで、こんな朴念仁な淀川なんかを好きになるのだ?
だいたいだ。このふたり、お互いいい年だというのに…
「思い切って、プロポーズしたらどうです?」
「な、なにっ?」
「結婚してほしいって、頼めばどうかと言っているんですよ。沢村先生のことをお好きなんでしょう?」
「ば、馬鹿な。そんなことは…だな」
海斗は、顔を真っ赤にしている淀川を見て肩を落とした。
「僕はこれで失礼しますよ」
「な、何言っとる。いまきたばかりじゃないか。これからなんだぞ。まさか、俺と…あ、あいつだけ残して帰らんだろう? 俺はどうすりゃいい?」
「言ったでしょう。プロポーズですよ。イブなんです。好きだ、愛してると、はっきり伝えるのに、今日ほど適した日はありませんよ」
「ば、馬鹿を言え!」
「あ、あの…」
淀川の大声を聞いたからか、キッチンの入口に沢村がやってきた。
海斗が十分前にやって来てから、男ふたり、キッチンに引きこもったまま、なにやら言い合いを続けていれば、気にならないはずがない。
「私…淀川先生が、イブなんてつまらないとおっしゃっていたから…。楽しませようだなんて…。勝手に押しかけてごめんなさい。もうこれで帰ります」
傷ついた顔で言った沢村は、背を向けてその場から消えた。
「わ、私は、別にだな…」
淀川は、同じ場所でぼそぼそと言う。
海斗は呆れた。
すでに歩み去った沢村に、聞こえるはずがない。
「早く追いかけないと、帰ってしまわれますよ」
「俺はだな。俺は…」
「はっきり言って、いまの先生は、情けなさすぎると思いますよ。沢村先生を愛しておいでなら、四の五の言わず、追いかけるべきです」
「煩いっ!」
大声で叫んだ淀川は、キッチンから飛び出て行った。
やれやれ…
これでようやく、気にかかっていた肩の荷をひとつ降ろせるかもしれない。
イブの日、淀川先生はひとりきりでつまらながっていますよと、沢村をそそのかしたのは海斗だった。
コートも着たままの海斗は、そのまま玄関に向かった。
玄関のところには、沢村をなんとか引き止めようとしている淀川がいた。
暴言のような言葉を吐きながら、引きとめようとしているようだが…
それでも沢村は、淀川の本心をちゃんとわかっているように思える。
大丈夫そうだ。
あとは、もう一押しか…ちょっとしたきっかけが必要かな。
「沢村先生」
「な、なに?」
「淀川先生は、ひねくれものの照れ屋ですからね、待ち続けても無駄ですよ」
「ほ、保科くん」
「保科、お前な!」
「先生から飛び込まないと」
玄関のドアを開けた海斗は、右手を上げ、力一杯沢村の背中を押した。
「きゃあっ」
「おわっ!」
沢村が淀川に向かって倒れ込んでゆくのを尻目に、海斗は玄関から出た。
さて、時間だな。
詩歩が、山口と中島のふたりとイブのランチを終えた頃合。
そろそろ、迎えに行かねば。
海斗は、弾む足取りで淀川のマンションをあとにしたのだった。
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