律儀な子猫

その1 未体験ゾーン



馴染みのない、けだるい疲労感に囚われて、水木澪(みずき・みお)は目覚めた。
まだぱっちりと瞼は開かないが、薄ぼんやりと光が見えた。

もう朝かぁ。

上掛けを肩まで引き上げる。
今日は土曜日だし、別に予定もないので、澪はゆっくり寝るつもりだった。

はっきりしない頭で、そうか夕べ慣れないお酒飲んじゃったもんなぁと思い出す。

もぞもぞと体を動かして、右側に向いた。
なんだか、シーツが肌にまとわりついてくる。澪は眉を寄せた。

右の手をすーっと自分の身体に滑らせてみた。
ぎょっとして目を見開く。

全裸だ、全裸で寝てるぞ、わたしっ。

いっぺんで目が覚めた。
寝ている部屋の壁に焦点があった。

あれ、私の部屋、いつのまに壁が薄茶色になったの?

呆気に取られたその一瞬後、現実に気づいた。

わたしの部屋じゃない!

頭の中に、信じられないような妄想が湧き上がってきた。
なんだかものすごい…淫乱な夢を…

澪は、頬を引きつらせて、そっと左側に向いた。びくりと全身を震わす。

これ、誰?





あの男の人が信じられないほどの熟睡魔で良かった。

あのあとの澪が立てる物音に、まったく気づく気配はなく、男はすやすやと気持ちの良い寝息を立てて眠り込んでいた。

ちらりと見た寝顔はけっこう好みだったけど、あのまま彼が起きるまでじっとしてなどいられなかった。
誘えばほいほいついてくる尻軽な女だと思っているに違いない。

なんでこんなことになっちゃったんだろうと哀しくなる。

床に転がっていた丸められたティッシュの数が、なによりも衝撃的だった。
できれば、あの部屋にあのまま置いてきたくはなかった。

なんだか自分が脱いだばかりのホットな下着を置き去りにしてゆくような思いにかられ、ずいぶんと後ろ髪を引かれた。

とにかく早く飛び出したくて、必死だったから、どちらにしてもそんな余裕などなかったのだが。

それに、どうやら不倫の片棒を担がされたらしいことが、さらにショックだった。
寝室の壁に家族の写真をあんなにいっぱい飾って、よくも女を連れ込めたものだと思う。

どうしてそんな男に…よほど巧みに誘われたんだろうか?
でも、何も覚えていなかった。

思い出せたのは、とても…口に出せないことばかりだ。

身持ちは硬い方だと、自負してたのになぁ。と、がっくりする。





家に帰り着いてすぐにシャワーを浴びた。

見知らぬ男に抱かれただなんて、そんな事実、帳消しにしたかった。
でもそれも、体中に残されていた赤い点々が消えてくれるまでは無理だろう。

相手を責められはしないことはよく分かっていた。

行為は絶対に無理やりではなかったし、酔っていたとはいえ彼女も合意の上だった。
それは分かる。

入ったこともない未体験ゾーンのバーなどに、のこのことひとりで行ったのにはわけがあった。

彼女の仕事はイラストレーターなのだが、今度新しい仕事を引き受けたのだ。
小説の挿絵を描く仕事。その一場面にバーがあった。

初めは、写真などを探してきて下書きをしてみたけれど、納得できるものは描けなかった。

どうにも不自然というか、しっくりこなかった。
それで実際実物を見に行くことにしたのだ。

そういうことはよくあった。なんでも実感しなければ絵にできない。

とにかく、当初の目的の、バーの挿絵は完成させることができそうだった。
あとは、はやく忘れてしまうことだと彼女は自分に言い聞かせた。




   
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