律儀な子猫 

その2 茫然自失



月曜日、澪は慣れた道を辿って会社の玄関を潜った。
衣料品メーカーの会社だ。

パジャマやTシャツなども扱っているようだけど、下着関係が主らしい。

毎月試作品がもらえて、けっこう役得もあった。
ここの下着は布地が良いのか、肌にとてもしっくりくる。

この会社の通販用の雑誌に、彼女はイラストを描かせてもらっていた。

こういう決まった仕事は、それまでなかなかもらえなかったから、ほんとうにありがたかった。
いまでは彼女の最大の収入源だ。

馴染みの受付の人に挨拶して、エレベーターに乗り込み、広報部に向かった。

ドアの前で入るのを躊躇した。
出来れば、いま彼に逢いたくなかった。

彼女の仕事の打ち合わせを担当してくれている深沢氏。

肩幅が広くて、そのくせスマートなボディ。
後ろへさりげなく撫で付けた髪と銀縁の眼鏡。

彼は目を眇める癖があって、その目でまっすぐに見つめられると、澪は頬が火照るのを止められない。

それに、直接からだの芯に響いてくるような低い声も…

いいんだよねぇ。

そう、澪は彼への恋心を秘めていた。でも叶わぬ恋だ。
彼はすでに結婚している。

逢えるのはうれしかったけど、切なかった。
それに今日はあの夜のこともあって、顔を合わせるのは辛かった。

打ち合わせは一時間ほどで終わった。

いつものように下着やら挿絵の備品の小物を入れられた紙袋を預かる。
入れてある下着は彼女のサイズで、挿絵に使ったら、そのままもらえることになっていた。

今回は黒いブラとショーツがセットで入っていて、説明される時、ちょっとどきりとしてしまった。
これまで桃色とか水色とか明るい色ばかりだったから…





「澪」

打ち合わせが終わって紙袋を抱えてドアを開けようとしていた彼女は、びっくりして棒立ちになった。

これまで彼が彼女のことを呼び捨てにしたことはない。

「やっばり気づいてなかったんだな」

思わぬ言葉に目を丸くする。

「ここにきてずっと、これまでと同じ態度だったから、もしやとは思ったけど」

その言葉はなぜか淋しげだった。

「あの、いったい何のことですか?」

深沢がぎゅっと唇を引き締めた。

澪は恐くなった。
眼鏡の奥の眇められた目が、鋭く光っているように見えた。

「君、もしかして、行きずりの男に抱かれたとでも思ってるわけか?」

低く潜められた深沢の声が耳に届いた瞬間、澪の手から、紙袋が持っていたバッグごとすべり落ちた。

鈍い音がして袋の中のいくつかの小物が、ころころと床を転がる。

澪は何も言えなかった。言えるはずがない。
こんなことってあるのだろうか?

呆れたように腕組みをしている深沢を、これ以上ないほど目を見開いて見つめていたが、彼が一歩踏み出した途端、パニックに襲われた。

「待て」

背中に深沢の声が飛んできたが、彼女は待ちはしなかった。




   
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