律儀な子猫 

その3 認めたくない事実



馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿。

歩道を走りながら、自分を際限なく罵る。

バッグを置いて来てしまったから、お金もなければアパートの鍵も手元にない。

それにしても、深沢さんって誠実そうにみえたのに…
妻に、あんなかわいい男の子までいて、不倫するなんて。

そんなひとだとは思いもしなかったわ。と、自分を棚に上げて憤慨する。

えらく広くてリッチなマンションに住んでたけど、あれって単身赴任の住まいだったのだろうか、それとも奥さんと子供がたまたま実家に戻ってたとか。

普段あまり歩いていないものだから、小一時間も歩くと足が痛くなってきた。
彼女は公園を見つけてベンチで休むことにした。

なんでこんな目にあわなきゃならないんだろ。

それにしても、深沢さん、眼鏡取るとあんなだったんだな。と、彼の寝顔を思い浮かべる。
とても若く見えた。

深沢の呆れたように言った言葉が、いまさらながら思い出されて、ひどく腹が立った。

どうして私ばかりがあんな言われ方しなきゃいけないわけ。
自分だって同罪じゃないの。

そりゃあ、相手に気づかなかった私も私だけど。

考えてみれば、相手が結婚してるのを知らずにベッドインしちゃった彼女よりも、妻子がいるにも関わらず、仕事関係で知っている酔った女を自分の部屋に連れ込んで…

澪は考えるのを止めた。
なんだか虚しくなってきた。

彼女はため息をつくと、自分のアパートに向かって、また歩き出した。

休み休みでも、三時間もあれば辿り着けるはずだ。そう考えて口を歪めた。

半べそをかいている自分が情けなかった。

いつだってそうだ。
子どもの枠から抜け出せない自分がいて、もどかしくてならない。

顔はそんなに子どもっぽくないと自分では思うのだが、身長が低いからか、年相応に見られたためしがなかった。

打ち合わせの時の深沢の態度も、手なずけた猫の印象を拭えない。

だが、ついつい仕事から脱線して、取り留めのない話に向かう彼女を、微笑んで聞きながら、さりげなく仕事の話に戻してくれる彼の思いやりとやさしさを澪は愛した。

初めて会ったとき、この人だと直感で悟った。と思った。
このひとならば、彼女のすべてを受け入れてくれる。と、思った。

結婚していると聞いたときには、頭のてっぺんにあったふわふわした恋心が、足元にどすんと落ちた。

数週間、立ち直れないほどの衝撃だった。

やっといつもお世話になっている近所のコンビニが前方に見えて、澪はほっとした。
ティッシュと糊がなかったなぁと思い出して、そのままコンビニの中に入った。

目当てのものを腕に抱え、大好物のプリンに目をやったが手に取るのはやめた。

レジに向かいながら、食欲ないなあと考えていたら、食欲が湧かない原因をふいに思い出した。

またやってしまった。

手にした品物を抱えたまま、澪は棒立ちになった。

どうも自分はねじが一本抜けているらしかった。
きっとこの身体を神様からいただく時に、神様が大切なエッセンスを一滴垂らすのを忘れたのだ。

それとも、落ち着きのない澪のせいで、神様も落とし損ねたのだろうか。

「よ、澪っち」

親しげに声を掛けられて澪は顔を上げた。

レジから、アルバイト店員の司がにやにやしながら彼女を見つめていた。

「どうせ、また財布忘れたんだろ」

ふっと馬鹿にしたように笑うこいつは、まだ高校三年生のはずだ。

馬鹿という言葉に過剰反応しそうになる頭を、澪はなんとか努力して冷やした。

財布がないのも事実だし、こいつの憎まれ口にも、哀しいことに慣れっこになってきている。

急いで商品を戻し、大笑いしている司を一瞥し、ぷっと膨れて澪はコンビニを出た。

こんな自分で、これからの人生を生きてゆきたくないと、澪は切実に思った。




   
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