律儀な子猫 

その4 とりとめのない口論



大家さんに頼んでアパートの鍵を開けてもらい、澪は自分の部屋にへたり込んだ。

もう一歩も歩けないほど疲れていた。
だがいつまでもぐずぐずしていられないということも分かっていた。

仕事を終えたら、きっと彼はやってくるだろう。
彼女のバッグと仕事の備品を持って…

パンパンになった足を引きずりながら彼女は荷造りを始めた。
しばらく友達の家に泊めてもらうつもりだ。

だが、それが駄目なら…、どうしよう?

残念ながら彼女の実家は遠すぎる。
仕事もしなくちゃならないし。と考えてため息をつく。

あそこの仕事続けられるかなぁ。あの仕事がなくなったら、やってゆけなくなる。

洗面所に入って歯ブラシとタオルを手に戻ってきた澪は、手にしたものを取り落とした。

ベッドに腰掛けていた深沢が、ゆっくりと腰を上げた。
衝撃に耐え切れず、澪は固まった。

「…これから、どこかに出かけるのかい?」

歯ブラシに気づいた深沢が指さして言った。
彼はひどく意地悪な表情をしている。

「し、仕事は?まだ終わらないんじゃ」

「ほうぼう探したぞ。これがなきゃ家に戻れないだろうと思ったんだ。財布、別に持ってたのか?」

ガラスのテーブルの上に、彼女のバッグと箱が置いてあるのをいったん見つめてから、また深沢に戻した。

「歩いてきました」

澪は震え声でぼそりと言った。

深沢は酷く驚いたようで、目を見開いた。

「あそこからここまで…? 根性あるなぁ」

「あの、荷物ありがとうございました」

言外に帰ってくれという含みをこめた。
彼の眉がぴくりと跳ねたから、きっとそのニュアンスに気づいたはずだ。

「ここにおいで」

テーブルのところに彼女を呼ぶ。
深沢はその前に座り込んだ。

「僕らふたり、話をするべきじゃないか?」

澪はためらった。

できればもう帰って欲しかった。
足もひどくだるかったし身体も疲れている。

「脅しと取られたくないけど、君、妊娠してるかもしれないぞ」

澪の目がこれ以上ないほど大きく開いた。

「嘘っ」

そう大声で叫ぶと、彼女は深沢に殴りかかった。

「嘘だもん。そんなの絶対嘘だもん」

暴れる澪の両腕を捕らえ、深沢は強く抱きしめてきた。

「落ち着いて、ほら、大丈夫だから」

泣き出した澪の身体を、深沢は赤ん坊をあやすように上下に揺らしながら背筋を撫でる。





「ほんとうに、何も覚えてないのか?」

彼女が落ち着いたのを見計らって、深沢がそう聞いてきた。

澪は唇をかみ締めて俯いたまま答えなかった。
その代わりに小声でこう聞いた。

「どうして、あの夜、私、深沢さんと逢ったんですか?」

「二週間くらい前、会社に来た時、挿絵の話をしたの覚えてるかい?」

そうだ、話をした。

小説の挿絵なんて初めてもらった仕事で、とてもうれしくて。
打ち合わせの最中に、彼に話したのだ。

口に出してはとても言えないが、彼に自慢したかった。
褒めてもらいたかったのだ。
それに…

「小説の作家と打ち合わせして、題材にするバーはもう決まってるって場所も教えてくれたろ。いつ行くのって聞いたら、その日にちと時間もね」

そう、それでバーなんて一度も行った事ないからちょっと恐いんですって、彼に言ったのだ。

もしかしたら、一緒に行ってあげようなんて言ってくれるんじゃないかって期待して…

そう改めて自分を振り返って、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
出来ることなら、過去の自分を絞め殺してやりたい。

「それで来てくれたんですか?」

「そ。仕事が立て込んで、少し遅れたけど。そしたら男をそそるデザインのドレスを着て、グラスを危なっかしげにゆらゆらさせながら目をトロンとさせてる君がいて、ビビった。あんまり無防備で…悪い男に騙されて連れてゆかれた後でなくて良かったって、心底ほっとしたよ」

澪は、その話に衝撃を受けた。
彼の前で、なんたる失態を…

「そ、そうだったんですか。心配掛けてすみませんでした」

恥ずかしさの重ね塗りで、顔が上げられなくなった。

「たぶん、僕が入って行った時、君の隣に座ってた男が酒を飲ませたんだろうな」

「ああ、あの人」

そう呟きながら、澪は思い出してそうかと思った。
あれはお酒だったんだ。

「フルーツジュースだって言われたから」

「そうとう強い酒だぞ。僕が行かなかったら、きっとその男のベッドで目覚めることになっただろうな」

澪はぞっとして青くなった。
あんな好みでない男に抱かれていたら、一生自分を許せないだろう。

「ああ、そんなことにならなくて、良かったぁ」

澪は自分の身体をぎゅっと抱きしめて、ほっとして言った。

「……」

黙り込んで変な表情をしている深沢に気づいて、澪は問いかけた。

「どうかしました?」

「いや、別に」

ほっとしたことで、澪は晴れ晴れとした気分になっていた。

「あの、お茶でも入れましょうか?」

すっかりリラックスして、澪は深沢の返事も聞かずに台所に立った。

彼の好みは良く知っている。
いつも打ち合わせのとき、コーヒーを好んで飲んでいる。

ブラックにほんの少しミルクを垂らす。
冷蔵庫には、ちょうどケーキがあった。

ケーキ食べるかな、深沢さん?

このケーキは、昨日、自分を元気付けるために大量に買い込んだのだ。

元気付けるため?

ケーキを乗せるお皿を食器棚から取り出したところで、澪は思い出した。
けして、忘れるべきではないこと…

皿が手から滑り落ちた。
ガシャンと大きな音がした。

「思い出したか?」

後ろを振り向くと、台所の入り口に凭れている深沢がいた。

言う言葉が思いつかなかった。

馬鹿。
いまここで死んじゃえ、わたし。

立ち尽くしていると、すっと彼が歩いてきて、床のお皿を拾い上げた。
落ちた音は大きかったけど、割れてはいなかった。

俯いたままつま先を見つめていたら、頭のてっぺんに、深沢の大きな手のひらがそっと置かれた。




   
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