その7 嘘つきとの対決
タクシーを捕まえ、澪はやっと深沢のマンションまで辿りついた。
あの朝、慌てて飛び出したものだから、この近くまで来たものの迷ってしまい、タクシーの運転手と探し回ったので、かなり遅くなってしまった。
森脇よりも早く着きたかったのだが、この時間では、さすがに彼女は来ていることだろう。そう思って、胸が騒いだ。
タクシーを降りてマンションの玄関に走りこんだら、エレベーターの前に淡いピンクのワンピースを着た女性が待っていた。
両手にケーキの箱と、食料品がパンパンに入った買い物袋をぶら提げている。
澪は、少し息を切らしながらその女性の隣に並んだ。
息を整えるために吸って吐いてを繰り返していると、その女性がこちらに振り返った気配がした。
「水木さんっ」
耳に覚えのある声だった。
刺のある声に驚いて振り向くと、ものすごく迷惑そうな顔をした森脇だった。
澪はほっと胸を撫で下ろした。
ゴール直前に追いついたことが嬉しくて、思わずにまっと笑ってしまう。
その笑顔が不気味なものででもあったかのように、森脇が顔をしかめた。
「どうしてあなたがここにいるのよ?」
澪は精一杯彼女を睨み付けた。
「私に嘘つきましたね」
「なんのこと」
「深沢さん、結婚してないそうじゃありませんか?」
食って掛かった澪に対して、森脇はじっと彼女を見据えてきた。
その目の鋭さに負けて、くじけそうになる。
「してるわよ、そう言ったでしょ?」
澪は後退った。
あまりにはっきりとした口調で平然と言われて、頭が混乱してきた。
それでも、どうにか言葉を続けた。
「で、でも芳川さんが…」
「あぁあ」
納得したというように、森脇が頷いた。
「水木さん、あなた彼女にからかわれたのよ」
そうなのだろうか?
「だけど、それじゃ森脇さんはどうしてここに…」
ふふんと彼女が笑った。
「だって、彼と結婚してるの私だもの」
こめかみに当てた拳銃の引き金を引いた気分だった。
衝撃の強さで澪はよろりと倒れそうになった。
「う、嘘っ」
「疑い深いひとね。これから彼のために食事作らなきゃならないんだから、早く帰ってよ。いい迷惑だわ」
そう言って、森脇が手にした袋を持ち替えた。
先ほどから目の前のエレベーターが開いていた。
呆然としている澪を置き去りにして森脇がエレベーターに乗り込み、扉がシューッという音とともに閉まった。
もう何がなんだか分からなくなった。
森脇の言葉を否定したいし、どこかおかしいと感じたけれど、あそこまではっきりと言葉にされてしまうと、信じざるを得ないような心持ちになる。
「お嬢ちゃん」
呼びかける声に、涙でうるんだ目を上げると、管理人らしきお爺さんが仕切りのガラスを開けて、おいでというような仕草をしている。
頭が混乱していた澪は、手招きされるままに近づいていった。
「ありゃ、嘘だよ。しかし恐いねぇ、あんなに平然と嘘がつけるなんてなぁ」
こわごわという表情で、お爺さんが声を潜めて言った。
澪は目をぱちくりさせた。
「深沢君は、結婚なんかしとらんて」
「えっ」
そう叫ぶと、澪はエレベーターの扉を振り返った。
「深沢君にはわしから連絡しといてやったから、あんたはここにおりゃあええて」
そう言うと、くっくっと愉快そうに笑い出した。
その時、エレベーターの扉が開き、深沢が出て来た。
彼はそのまままっすぐに澪のところにやってくる。
「やあ」と、短く言った深沢は、満面の笑みを浮かべていた。
こんな時なのに、『このひと、あのひとだ』と、頭の端っこで納得している自分がいた。
ラフな服装。
乱れた前髪は目に掛かるほど長い。
ベッドに寝ていた無防備な顔の深沢にそっくりだった。当たり前だが。
彼の後ろから森脇が出て来たのに気づいて、澪はどきりとして一歩後ろに下がった。
その途端、深沢に腕を掴まれた。
頬を紅潮させ肩を怒らせた森脇は、澪に振り向きもせずそのまま出て行ってしまった。
「ずいぶんと恐い思いしたみたいだな」
わけが分からず森脇の後姿を見つめていたら深沢が言った。
「森脇さんが、結婚してるって…」
「僕が?」
澪は頷いて俯いた。涙がぽたぽたと床に落ちた。
次の瞬間、澪は深沢に抱きしめられていた。
「お嬢ちゃん、今度、差し入れ待っとるからの」
「須藤さん、ほんとに助かりました。今度、酒、一緒に飲みに行きましょう。俺のおごりで」
「おお、深沢君、楽しみにしとるぞい」
わっはっはと嬉しそうな笑い声が響く中、澪は深沢に促されてエレベーターに乗り込んだ。
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