律儀な子猫 

その8 子猫の爪



深沢の部屋に入って、澪は勧められるまま床に座り込んだ。

なんだかここにこうしていることがとても不思議で、部屋をつぶさに眺めてしまう。

何気に床に視線を当てて、転がっていたテッシュの塊を思い出し、澪は顔がカッと熱くなった。

あの丸まったティッシュを深沢が拾い上げて捨てている情景が脳裏に浮かび、気まずさにいたたまれない思いがした。

もじもじしていると、オレンジジュースの入ったコップが前に置かれた。

「ご、ごめんなさい」

いろんな意味で、と心の中で付け加えた。

「なんで君が謝るの?」

「だって、ティ…いえ、あの深沢さんに、ひどいことをいっぱい言ったから」

心臓がバクバクした。

緊張してとんでもないことを口走るところだった。

澪は「セーフ」と心の中で叫んだ。

「君は悪くないだろ」

悪くないだろうか?

でも、深沢に迷惑をかけたのは事実だし、彼の頬を叩いた罪もある。

「叩いちゃったし…」

「そのこと気にしてくれてるの? たしかに、かなり傷ついたけど…とくに心が」

故意に毒を含ませた彼の言葉に、澪は顔が引きつった。

後悔にさいなまれていた澪は、深沢がプッと吹いたのに気づかなかった。

「あの、今日休んだのって、私が来るから?」

「いや、うん。まあ、顔を合わすのは辛かったけど、この最近食欲なくて、体調が…」

「えっ、それじゃ、寝てないといけないんじゃ」

「もう大丈夫。食欲も出てきたし」

「それじゃ、わたしに何か作らせてください」

澪はぱっと立ち上がったが、深沢に手を掴まれた。

「聞きたいことがある。君は僕が結婚しているとずっと思ってたのか?」

澪は頷き、深沢の質問に思い出し思い出し答えた。

三ヶ月ほど前、会社から帰るところを森脇に呼び止められて世間話をし、その会話の中で深沢は結婚しているという情報をもらってしまったのだ。

森脇の言葉は舌を巻くほどさりげないものだった。
それを思い返すと、澪は人間不信に陥りそうだ。

深沢は、ひどく硬い表情で澪の言葉を聞いていた。

「あの夜のこと、本当に何も覚えてないのか?」

考え込んでいた彼にそう聞かれて、澪の顔がボッと燃えた。

「あの、なんか…夢の中のことみたいな感じでは…」

「君を抱いた男が僕だったことは?」

抱いたという言葉に、顔がまた火を噴いた。
澪は深沢の顔をちらと見た。

実のことを言うと、エレベーターから現れた彼の姿を目にした時点で、あの夜の相手の顔をはっきりと思い出していた。

背広を着た彼と、ラフな彼とはあまりに違いすぎる。

「たぶんかなり思い出してると。あの、ちょっと失礼します」

澪は膝立ちになって深沢の前髪を掻きあげ、後ろに撫で付けた。
半分いつもの深沢に戻って澪はほっとして微笑んだ。

深沢は澪にされるままになっていた。ひどく愉快そうな顔で…

「眼鏡は? 掛けなくても見えるんですか?」

「ああ、そんなに悪くはないんだ。ちょっと運転するのに引っかかるくらいだから家では掛けてない」

深沢が立ち上がり隣の部屋に入ったが、すぐに戻ってきた。眼鏡を掛けていた。

「あ、深沢さんだ」

澪がそう言うと、深沢が苦笑した。

「この方がいい?」

澪は考え込んでから、「いつもの深沢さんだから、安心感が湧きます」と答えた。

「普段の僕は、澪に嫌われてるのか。なんだか複雑な気分だな」

「き、嫌ってないです。ただ、眼鏡を外して髪を下ろした深沢さんは…その。直結してて…」

呼び捨てにされて、焦って言葉をつむいだおかげで、余計なことまで口走ってしまった。

「直結してる? 何と?」

深沢が首をひねって聞き返してきた。

あの夜の言葉に出来ない行為と、だなんてとても言えない。澪は真っ赤になった。

「僕のこと好き?」

直球で聞かれて恥ずかしさに尻込みしたが、彼女は頷いた。

深沢が眼鏡を外して、自分の髪をくしゃくしゃっと撫でて前髪を下ろした。
驚いていると、彼がぐっと身を乗り出し、澪の耳に唇を寄せて来た。

「それじゃ、名前で呼んで、あの夜みたいに」甘い囁きだった。

温かな息が耳たぶに掛かり、身震いした澪の頭にまざまざと蘇る情景。

「うっ、わーーーーっ」

澪は正座したまま、後ろに1メートルほど後退った。

「器用だな」

深沢は感心したように言って、くすくす笑い出した。

その時、インターホンらしき音が部屋に響いた。

深沢は眉を寄せ、「誰だろう」と呟きながら壁に掛かっているインターホンの受話器を取り上げた。

二言、三言、話をして、受話器を元に戻すと、彼が澪に振り向いた。

「須藤さんが、玄関に何か落ちてたけど、君が落したんじゃないかって」

それを聞いて澪はがばっと立ち上がり、そのまま玄関へとすっ飛んでいった。
だが、靴を履く前に、玄関のすぐそばに立っていた深沢に襟首を掴まれた。

くっと喉が絞まり、澪はすとんと玄関口に座り込んだ。

「深沢さんってば、ゲホッ、ゲホッ、何するんですかっ。ゴホッ、苦しいじゃないですか」

澪は咳き込み、喉をさすりながら文句を言った。

「ごめんごめん、つい」と言いつつも、深沢はおかしそうに笑っている。

深沢は絶対に、自分のことを猫と同列に見ている。

澪はぷっと膨れて深沢を睨みつけた。
だが、まったく堪えていないらしい深沢は、こともあろうに澪の唇を塞いできた。

驚きに目を見開いたまま固まっていると、唇をつけたまま深沢が「目、閉じて」と言った。




知らない間に、深沢はいなくなっていた。

彼の気が済むまでキスは続き、頭がぼーっとなっているところを抱き上げられ、いまベッドに転がっている澪がいた。

頭がはっきりしてきた澪は、慌ててベッドから転がり出た。

だがいまさら深沢を追いかけても、すでに手遅れだろう。

澪はため息をつくと深沢の寝室を眺めた。
ベッドの床を見ると、まだしつこくティッシュの塊の奴が脳裏に浮かんで来て澪を辱める。

唇を噛んで顔を上げたら、例の写真が目にとまった。

もう写真の主にだいたいの見当はついていたが、近くに行って確かめた。
二歳くらいの男の子の写真。なんとなく深沢のおもかげがある。

その写真の上の位置に、額に入れられて壁に飾られた絵を見て澪は微笑んだ。

「可愛いだろ」

深沢の声に澪は振り返った。ものすごく自慢げだ。

「道隆おじさんですか?」

色彩豊かなまるまるばかりの絵は、ひととは判別しにくかったが、まるまるのない空白の部分に大人の字で『みちたかおじさん』と書いてあった。

「これ」

深沢が黒い袋を差し出して来た。
澪はきゃっと叫び、思わず手を後ろに隠した。

気まずげに、深沢が目にしているものを見つめる。
わざわざ持って来たのは澪だが、こういう形で目の前に出されては受け取り辛い。

「君の落とし物、だよな。かなり見覚えあるし」

顔の前まで近づけてしげしげと観察されて、澪は彼からひったくるようにしてそれを奪った。

ズボンのポケットに押し込もうとしたが、どうしても全部は入らない。

「どうして、それ持ってきたの?」

澪はポケットに入れるのを諦め、握り締めたまま背中に隠した。

これをくれた彼の気持ちに応えたい、あの時、咄嗟にそう考えて持ってきたのだったが…

「…返そうと思って」

「それでここに来たの?」

澪は違うと首を振った。

そしてここに来た訳を思い返しながら話し出した。

「ここに来たのは、森脇さんが嘘ついてるって分かって、深沢さんが結婚してないって分かって…」

考えに囚われていたら、手にしたものを隠していたことからすっかり意識が逸れ、いつの間にやら胸のあたりで両手で抱えていた。

「森脇さんが深沢さんを狙ってて、お見舞いに行ったって聞いたから」

澪は自分で言い終わると、首をひねった。これで合っていただろうか、と。

「なら、それはどうして持ってきたの?」

促されるように聞かれて、澪は袋に視線をあて、また考え込んだ。

「えーっと、深沢さんがこれをくれたのは、きっと私につけて欲しかったからだから、持って行ってつけてあげたらきっと喜ぶかなって…あ」

澪は「しまった」と顔をしかめた。

「最高!」

深沢はそう叫んで笑い出した。
笑いが止まらずにお腹を抱えて笑いこけている。

澪はものすごい怒りが湧いた。

黒い塊を床に投げつけると、彼女は肩を怒らせて玄関に向かった。


普段、ぽわんとして扱いやすい子猫のような澪。

いったん機嫌を損ねると、回復するのにどれだけ苦労しなければならないかを、このあと深沢はつくづくと実感することになる。




End




  
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