律儀な子猫 

ハロウィン特別編

その1 『子猫の企み』



「ええなー、これ、おいら好きだなぁ」

にへらにへらしたすけべ丸出しの笑いをした安西の後ろに、道隆はそっと回り込んだ。

「ピンクもいいけどさぁ、やっぱ萌えるのは黒いプラパン熟女だよなぁ。ジュクジュクジュクジュク、ジュックゥジョ」

道隆は手のひらを振り上げて、目標ブツを思い切り叩いた。

「ウギョッ」

おでこが机にぶつかるゴンという音とともに、安西が微妙な叫び声をあげて机に突っ伏したのをみて、道隆はそれなりの満足を覚えた。

手のひらにジンジンした痛みのしっぺ返しを食らったが、それよりなにより、机の上で後頭部の痛みにのたくっている安西を見れば、この痛みも、なんてことはなかった。

この愚か者は、哀しいことに現在道隆の部下なのだ。

安西直剛(あんざい・なおたけ)。直剛などという強そうな名を持っているが、実際のところ、ただの助平でしかない。

仕事はそこそこ出来るのだが、カタログ雑誌に載っている下着姿の女性を眺めてはにニヒニヒと、低俗で許せぬ笑みを隠そうともしない。

職場の空気が、こいつひとりのせいで、どす黒い好色に染まってでもいるようで、道隆はそれが許せなかった。

だが、尋常でなく打たれ強い男は、痛みが過ぎると、反省の色も無くすぐ元に戻るのだ。

好色雑草男…

そう名付けたのは、もうひとりの部下安井潤だ。
こいつの方は、以前から澪のことを気に入っていて、澪のことばかり話す。
彼にとっては、ひどく煩わしい男だった。

それにしても、安井より手の余る部下が入って来ようとは…

これなら、化粧の濃くなりすぎて香水のきつい匂いに辟易した栗本の方が、マシだったかもしれないと、彼はいささか悔いを覚えていた。

このふたりさえいなければ…いや、我が侭はゆうまい、この安西さえ、こいつさえいなければ、なんの文句もない…

……安井は、許そう…

「深沢課長、これ用意しときましたっ」

道隆は、呆れた視線を向けていた安西から、声を掛けて来た安井に振り返った。

すでに痛みは引いたに違いないのに、いまだ偽の痛みにのた打ち回っている安西を見て笑いながら、安井は大き目の紙袋を差し出してきた。

「ああ、ありがとう」

今日は澪がやってくる。
1月のカタログ作成の打ち合わせにくるのだ。

そろそろ11月になろうというこの時期、クリスマスというイベントに加え、正月の特別号もあり、カタログの内容もそれ相応に濃いものになる。

顧客を喜ばせる内容になるよう、充分な吟味が必要で、これからは、いつもより打ち合わせの回数も多くなってくる。

もちろん、澪とは一緒に住んでいて、毎日顔を見られるし、ベッドでも一緒だが、仕事の場で会えるのは、また別物の楽しみだ。

打ち合わせの個室で、ちょっとしたふざけあいやじゃれあいも…

「そろそろ玄関あたりに澪ちゃん来てるんじゃないかなぁ、僕ちょっと先回りして…」

道隆は、彼に止められる前にすっ飛んでゆこうとする安井の首根っこを押さえた。

「か…く…か…く…」

喉を閉められて声が出ないらしい安井の首を、道隆はゆるめてやった。

「課長、苦しいじゃないっすかぁ。死んじゃったらどうするんですかぁ」

「死にはしない。み…」

澪と言いそうになって、道隆は言葉を止めた。

「まだ来ているかも分からない水木君を迎えにいくより、やるべき仕事があるだろ」

「どうしてそう課長はわからずやかなぁ。どうして可愛い部下の恋路を邪魔するようなことばかりするんだろうなぁ。僕、信じられないっすよ」

「澪っていったい誰なんすか、安井先輩?」

目をランランと輝かせた安西が、安井に聞いた。

「イラストレーターの水木澪ちゃん。僕の彼女に一番近いところにいる女性」

なぜか威張ったように安井は言った。
安井も安西も気づかなかったが、このとき道隆の瞳は、冷たい光を帯びていた。

「へー、でも、付き合ってるわけじゃないんだ」

安西らしからぬ鋭い指摘に、安井は一瞬怯みを見せたが、すぐに気を取り直したらしい。

「付き合ってるも同じなんだよ」

「へーっ」

信じていないおどけた口ぶりに、安井が目を三角に尖らせた。

「課長がちょっと力添えしてくれればさ…澪ちゃんの担当を僕にしてくれれば、すぐにうまく行くんだ…なんたって、澪ちゃんは僕のこと、憎く思ってないからなぁ」

道隆は、先ほど、安井を許そうと考えた甘い自分に、激しい憤りを感じた。

彼は手を振り上げると、安西の机に思い切り振り下ろした。

「バシーン」という衝撃音に、安井が飛び上がった。

叩かれた机の持ち主の安西は、先輩格の安井の怯えが愉快らしく、にはには笑っている。

道隆は冷ややかな目で安西を見つめた。

安西の瞳に怖れの色が浮かぶのを確認し、道隆は好色雑草男の鼻先に、指をぐっと突きつけた。

「いいか。良く聞け安西」

道隆は地の底を這うような声を出した。

「はひっ」

はいというつもりだったのかもしれないが、安西の声は悲鳴のようにしか聞こえなかった。

相手の間の抜けた顔に、思わず笑いそうになった道隆は、腹に力を込めて笑いを握りつぶし、怒りの表情にさらに凄味を加えた。

「この会社で女性の下着はとても神聖なものなんだ。お前のようなよこしまな考えを持つものに、この部署にいる資格はない。その許しがたい態度を改めないと、いますぐにでもお払い箱にするぞ」

目を見開いている安西をもうひと睨みして、再度震え上がらせると、道隆は、安西同様に彼の怒りに竦んでいる安井にも同じ睨みを向けた。

ふたりに与えた効果に対する満足を隠しながら、道隆は、安井が用意した紙袋をしっかり手に掴み、自分の机に戻った。





澪は定刻より少し早めにやってきた。

道隆は受付から澪来訪の連絡が入ると、すぐに腰を上げたい衝動を抑えつつ、ごくゆっくりと机の上を片付け、立ち上がった。

安井の恨みがましい視線を無視して、彼は澪との打ち合わせの部屋に向った。

エレベーターで上がってくる澪よりも先に、道隆は部屋についていた。
彼はいつもと同じ椅子に座り、目の前のドアに現れるはずの澪を待った。

必要な打ち合わせをなるべく早く終わらせれば、そうしたら、その後は…

にやけそうになる頬を引き締めた道隆は、時間を確めて眉を潜めた。

まだ澪がやってこないのはおかしい。
エレベーターが故障でもしているのだろうか?

彼は立ち上がり、ドアを開けて外を伺った。

エレベーターの前に澪がいた。そして…こともあろうに…

道隆は憤怒に駆られ、ドアを勢いよく後ろ手に閉めて、澪に絡んでいる安西の所に近付いていった。

「深沢課長、いま、水木さんをお連れしようと思っていたところですよ」

この好色雑草男の目に、穢れのない澪を晒してしまったなんて…

「それはお前に与えられた仕事か…?」

「与えられた仕事にとどまらず、必要なことは自分から行動を起こして成すべきと…数日前課長が…」

「どうやら君は…選択を誤ったようだぞ」

道隆は安西に向って指を上げ、きゅっと職場のドアに向けて方向を示した。

「必要なことだと思ったんですよ。水木さん、お会いできて嬉しかったですよ。また逢いましょう。そう、今夜に…あ、課長」

道隆は安西に先んじて、安西の手から小さなメモ用紙を取り上げた。

「な、何するんですかぁ」

許せぬことに、安西は澪のほっそりとした清潔な手を、その汚れた手に取り、その汚らわしいメモをねじ込もうとしたのだ。

そのメモには、安西の携帯番号が書いてあるのに違いなかった。

「いますぐ戻れ!さもないと…」

道隆は首のところで、手首の反動を利かせ、親指をすばやく横に捻った。

そのところの意味を、安西はすぐに理解したようだった。

好色雑草男の心意気か、安西は澪ににやけた笑みを残しつつも、あたふたと職場へと逃げて行った。

「なんだか、ずいぶんおかしなひとですね」

道隆について、部屋に入ってきしな、可愛らしいくすくす笑いとともにそう言った。

彼は背広のポケットの中で、安西のメモを、渾身の力を込めて握りつぶした。

「あんなもの、見るんじゃない」

彼は不機嫌に言い捨てた。

「深沢さん、どう…」

部屋に入ってふたりきりになった途端、道隆は澪の頭に両手をかけ、彼女のやわらかな髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。

それが済むと、彼女の身体から埃を払うように、さっさっと手を動かし、最後に彼女の顔を両手のひらで包んで、瞳を覗き込んだ。

事態についてこれていないらしい澪は、驚きに目を丸くして道隆の動向を見守っていた。

彼は少し開いた澪の唇に唇を重ね、やっと気分を回復した。

「フカ、フカ、ミッ…」

「道隆」

「み・ち・た・か」

クシャクシャになった髪を無意識に指で直しながら、澪は道隆の言葉を真似るように言った。

彼はよく出来ましたというように微笑むと、彼女の髪を再度ぐじゃぐしゃ掻き回し、もう一度抱き締めてから開放した。

仮にもここは職場だ。
いくらでもキスはしたいが、さすがにこれ以上は、彼の道徳心が許してくれない。

「さ、なるべく早く仕事を片付けよう」

澪はいまだ道隆の考えについてこられず、途方に暮れた目をしている。

その表情は彼の保護本能を活性化させ、なおかつ、抱いてはならない熱い欲望をそそってくるのだが、澪本人は、そんなことは思いもよらないことだろう。

今夜だ今夜…

道隆は身体の奥深くで荒立つものにそう言い聞かせつつ、自分の中心部の熱をなだめた。

「11月号の、ハロウィンにちなんだ君のイラスト、とても評判が良かったようだよ」

道隆の報告を聞いて、澪の瞳が嬉しげにキラキラと輝いた。

「ハロウィンは、あまり日本人に馴染みのない行事だが、思った以上に季節感を感じさせるようだな」

「そうですよね」

身を乗り出すようにして澪は同意してきた。
道隆は反射的に、澪の頭のてっぺんを数回撫でていた。

どうしてか彼は、無性に澪の頭を撫でたくなってしまうのだ。
それは、澪の髪の質がとてもやわらかで、手触りが良すぎるからなのかもしれない。

もしかすると、膝に抱いた子猫の頭を撫でたくなるのと、同じ欲求なのかもしれなかった。

「今日のランチは、少し遠いところまで行こう」

今日は一緒に昼食をという約束をしていた。
だが、安井ばかりでなく、遠慮を知らない安西もいるし、あまり近くない店にした方がいいようだった。





「フカミッチー、今夜、早く帰ってこられる?」

ランチを食べている道隆に澪が尋ねてきた。

道隆は、フカミッチーの呼び名に対する抗議に、澪にしかめっ面を見せつつ、考え込んだ。

「いつもと同じくらいには遅くなるかもしれない。澪、俺も早く帰りたいが…この時期は忙しいんだよ」

澪は納得がゆかなげに唇を尖らせ、それでも頷いた。

このところ、帰宅時間は8時9時がざらだった。

もちろん道隆としては仕事などさっさと切り上げて帰りたいのだが、部下に…特に安井に足を引っ張られ、思うように帰れないのだ。

ちっとも考えなかったが、栗本ではなく、安井を放出してやればよかったのかもしれない…

だが安井は…他の職場では、とてもやってゆけないだろう…
あいつは冗談でなく、お払い箱にされかねない。

けっきょく、道隆が使うしかないのだ。

「で、でも…少しくらいなら、早く帰ってこられる?」

澪のいくぶん懇願するような声に、道隆は眉をあげた。

「今夜、何かあるのか?」

澪はぎょっとし、ブンブンと激しく首を振った。

「そう」

道隆はあっさりと頷いた。
澪はあからさまに安堵の息を吐いた。

どうやら今夜、澪は何かを企んでいるらしい。

しかし、いったい、どんなハプニングが彼を待ち受けているのだろうか?

道隆は口の中のものを噛み砕いて飲み込むと、澪に微笑みかけた。

「なるべく早く帰るよ、澪」

彼の言葉には、口にした道隆本人がびびるほど、甘い響きがあった。
澪は、頬を真っ赤に染めることで、即座に彼に応えてくれた。




   
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