その2 彼の焼餅
深沢はさりげなく時計を見た。
澪がやってくる約束の時間まであと十分。
これまで仕事の約束に澪が遅れてくることはなかった。
果たして今日は、時間通りにやってくるだろうか?
今朝のあの状態から考えると、それは難しいだろうと彼には思えた。
「深沢課長、何か良いことでも、おありになったんですか?」
深沢は手にした書類に焦点を合わせ、ゆっくり顔を上げた。
「いや、どうして?」
「口元に笑みがありますよ。朝からずーっと」
部下のひとりである栗本が、彼の机に片手を置き、指で口元を押さえながら言った。
深沢は前髪を後ろにかきあげながら、眉をしかめ口元を引き締めた。
「そうか」
栗本の仕事振りに不服はないが、彼女の過ぎるほどの化粧と香水には参る。
入社してきたばかりの頃はこうじゃなかったがなと思い返し、悪いけれど彼女には他の部署に行ってもらうかと考えていた。
栗本はかなりの美人だから、どの部署でも引く手あまただろう。
「課長、受付から連絡入りました。水木さんいらしたそうです」
澪が来たと聞いて、思わず腰が浮きそうになり、深沢はそんな自分がやたら可笑しかった。
「ああ、わかった」
約束の時間通りだ。
あの澪の天然さからすると、頻繁に遅刻しても不思議ないくらいなのに…。
机の上を手早く片付けていると、澪に手渡す必要なものを、いつも通り安井が差し出してきた。
「課長、俺も打ち合わせに同席させてくださいよ」と顔を寄せて耳打ちしてくる。
深沢は顔をしかめた。またその話か。
「そんな迷惑そうな顔しないで、僕と澪ちゃんの恋を取り持ってくださいよ、頼みますよ課長」
首しめてやろうか、こいつ。
「フラれたんだろ」
「澪ちゃん、恥ずかしがってるんですよ。ほら、彼女ウブだから」
ウブ…ね。
深沢は、にやついてくる顔を、安井から隠した。
荷物を持ち、歩き出すと、安井までがついてくる。
「お前、仕事は…」
「銀行まで行くようにって、さっき課長が言ったじゃありませんか」
「お前…まだ行ってなかったのか?」
「ひとめ、澪ちゃんに逢いたいんですよ。彼女が来るの、月に二度しかないんですから。このいじらしい男心、分かってくださいよ」
「いじらしいねぇ」
深沢は呆れて天井を見上げた。
「澪ちゃんの肌って、すべすべしてて真っ白で綺麗なんだよなぁ。そいで、手足なんかもポキッと折れそうなくらい細っこくて。僕が強く抱きしめすぎて折れたらどうしよう」
深沢は、仕方がないことと分かっていても、安井の妄想の中から澪を救い出せないことにひどく苛立った。
なのに、安井の妄想はさらに続く。
「少し垂れた丸い目が愛らしくて、唇なんてピンク色で…」
「そりゃあ、口紅の色だろ」
口紅をつけていない澪の唇は、淡い桃色だ。
澪の唇を思い出して、深沢の胸が疼く。
あー、キスしたい。
「あー、キスしたい」
深沢はどきりとした。いま口にしたのは…
「俺じゃないよな」
「は?俺じゃないって…」
こいつか…
「そんなに睨まないでくださいよ。たしかに、仕事中、不謹慎な発言でした。すみません」
素直な性格の安井は、申し訳なさそうに頭を下げてきた。
真面目によくやってくれる奴なのだが…
いつもなら澪が来る前に、深沢は部屋に先に入って待っているのに、安井のせいで廊下で鉢合わせしてしまった。
「あ、ふ、深沢さん…」
パニックに陥ったように澪の視線が泳ぎ、その頬が真っ赤に染まってゆく。
深沢は、内心満足して笑みを浮べた。
「澪ちゃん、ひさしぶりだね」
「え、あ…潤さん、こんにちは」
深沢はむっとして眉間に皺を寄せた。潤?
「ね、澪ちゃん、打ち合わせが終わったら、ひさしぶりに一緒にお昼のランチ食べようよ。僕ら友達だもんな」
「あ…」
ひどく気まずそうに、澪は上目遣いに深沢を見上げてきた。
そして、ビクリと肩を振るわせた。
「どうしたの?澪ちゃん」
「だ、駄目です。一緒に、ラ、ラ、ランチなんて、い、行けません」
自分の目の前でブンブンと手を振り、澪が声を上擦らせて言った。
「えーっ、どうしてさ」
不服そうに安井が言った。
「ど、どうしても、も、です」
澪はそう言うと、気まずさの極みとなった現場から逃げ出し、打ち合わせの部屋に急いで入って行った。
深沢もその後に続いた。
ドアが閉まる直前、安井が切なそうに「ちぇっ」という声が聞こえた。
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