律儀な子猫 番外編 

ロマンチックに後悔

その4 彼女の不安



「おっ、澪ちゃん、お帰り」

野太いやさしい声に、澪は笑顔を向けた。
マンションの管理人の須藤源次郎は、いつでも日焼けした真っ黒な顔に、嬉しそうな笑みを浮べて澪を出迎えてくれる。

「源ちゃん、ただいまぁ」
その挨拶に、源次郎の笑みがまた崩れた。

「すごい荷物だねぇ。手伝ってやろうか?」

仕事の荷物に加え、帰り際、食料品をたんまり買い込んできたので、両腕がぎしぎしと音を立てそうなほどだった。

「ありがと。でも大丈夫。あともう少しだし」

澪がそう言って遠慮したにもかわらず、源次郎は急いで管理人室から出てきて、澪の荷物の半分以上を持ってくれた。


荷物を運んでくれたお礼に、澪は源次郎をお茶に誘った。
礼儀上か、一度あいまいに断ったものの、源次郎はいそいそと上がりこんで、澪の勧めにしたがって居間のソファに座った。

お茶好きな源次郎のために、ちゃんとおいしいお茶の葉も買ってあるし、彼専用の湯のみまで澪は用意していた。

「どうだい。ふたりの生活は?」

お茶をうまそうに啜った源次郎は、意味深な笑みを浮べながら、冷やかすように言った。
彼は昨日、澪の引越しを手伝ってくれ、そのあと三人は、近くの居酒屋に飲みに行っていた。

「それが…ちょっと良かったのかなって…」

「どうした。深沢君と喧嘩でもしたのかい?」

「そうじゃないの。こういうのって…」

うん?という感じで源次郎が首を傾げた。

「同棲…なんだよねぇ」

「まあ、そうだな。でもいいんじゃないか、いずれふたりは結婚するんだし」

結婚の二文字に、澪は俯いた。
ふたりの間で結婚の言葉は出ていない。

「婚約は、まだだったのかい?」

源次郎の意外そうな言い方に、また澪は俯いた。

「おかしいのぉ。深沢君は、そういうとこ、ちゃんとけじめをつける性分の男だと思うんだがなぁ…」

肩肘を突いて考え込んだ源次郎につられて、澪も両肘を突いて考え込んだ。

ふたりして視線を合わせて考え込んでいるうちに、澪は源次郎の真剣すぎる顔に笑いを触発されて噴き出した。

「源ちゃん、もう考えるのやめる。フカミッチーのこと大好きだし、それだけでいいや」

「フカミッチー?なんだねそりゃぁ?」





夕食の支度を早々に終えてソファに座り込んでいた澪は、遅々として進まなかった時計の針が、やっと望みの時刻に差し掛かっているのを確かめてほっと息を吐いた。

イラストの仕事もあるのだが、そんなに急ぎではないし、今日は一緒に暮らしはじめて、初めての夕食なのだから、めいっぱい愛情を込めて手料理を作ったのだ。

買い物をしている途中に、深沢から今夜は外食しようという電話が入って、いちおう頷いておいた。
彼が戻ってきたら、この料理をみせて、びっくりさせてやるつもりだ。

ちょっと高価なワインまで冷やしてあるのを知ったら、彼はどんな反応をするだろうと考えて、澪はむふふと笑みを洩らした。

その時、電話が鳴った。着信の名前を見ると、深沢になっている。

澪はガッカリしながら受話器を取り上げた。
残業で遅くなるというのだろうか?

「澪、戻ったよ。支度出来てる?」

「フカミッチー、お帰りなさい。支度出来てるよ」

深沢が数秒黙り込んだ。

「フカミッチー?」

「澪、その呼び方…まあいい。とにかく、支度出来てるならはやくおいで」

「おいで?」

「このまま下で待ってるから。澪の気に入いりそうな店、予約したんだ。少し遠いから、急いで行こう」

予約…

澪はパニックに陥った。自分の服を見下ろして血の気が引いた。

外に行く支度なんて出来ていない。

「あ、あの。しばらく待って、着替えるからっ」

「え?支度できてるんじゃなかったのか?」

「近所の居酒屋さんとかに行くと思ってて…。もう、十分、いえ、二十分待って、お願い」

「ああ、そうか。すまない。俺の言葉が足りなかったな。それなら一度部屋に戻るよ」

澪はその言葉に慌てた。食卓の上には…

「いい。上がって来なくていいから、そのまま待ってて」

叫ぶように言うと、澪は受話器を戻し、邪魔な思考をすべてストップさせて、食卓の上のものを冷蔵庫にぶち込むこと、着替えだけに集中した。

十五分後、澪は深沢の助手席に座っていた。
はーはーと息を切らしながら、まだきちんと結べていなかった腰のりぼんを結んだ。
このクリーム色のワンピースは、付き合い始めて間もない頃、深沢が買ってくれたのだ。

「あーっ」

走り出してすぐ、澪は叫んだ。

「澪、どうした?」

「髪、梳くの忘れた…」

情けなさに涙声になっている澪をちらと振り向き、すぐに顔を前に戻して、深沢はふっと笑った。

「ぜんぜんおかしくないよ。いつもどおり可愛い澪だ」

澪の胸がどどーんと高鳴った。

いつも…かわいい?

照れた澪は、運転中の深沢の腿に指をあて、くるくると滑らせながら、「フカミッチー」と甘く呼びかけた。

車がぎゅんと横揺れに揺れ、澪は驚いて悲鳴を上げた。

「澪、まだ死にたくないだろ。運転中だけはおとなしくしててくれ」

蒼白な顔で、澪はうんうんと頷いた。




   
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