その5 彼の悲哀
小高い位置にある建物へと澪を伴って歩きながら、深沢は自分の選択は間違っていたのじゃないかと思い始めていた。
ネットで検索して、この店を見つけ、内容を確認したときには、素晴らしいアイディアだと思ったのだが…
目前となった建物の装飾にも二の足を踏むが、階段の両端で点滅しているピンクの光に、甘いものを食べ過ぎたときの飽満さを感じる。
こんなところに自分を連れてきた彼を、澪がどう見ているのかと思うと、深沢は彼女に振り向く勇気がなかった。
深沢は眼鏡を外してポケットに収めた。
視界が少しぼやけ、いくぶん気が楽になった。
澪が彼をちらと見上げてきたのが分かったが、深沢は、どうして?と聞かれるのが嫌で、気づかないふりをしたまま、前髪も下ろした。
これで、これからの時間、最後まで耐えられるかもしれない。
店の中に入り、名前を告げると、すぐに黒い背広の男が出てきて、ふたりに向かってにこやかな笑みを浮べた。その笑みが商業的でなかったことに、深沢はかなりほっとした。
男の先導で、ふたりはまた外に出て、それからさらに小高いところにある小さな建物に向かった。
十畳ほどしかない小さな建物の中は、ほぼすべてのものが白とピンク色でできていた。
床にはふかふかの絨毯が敷き詰めてあり、細いヒールを履いている澪は、ずいぶんと歩き辛そうにヨタついている。
深沢は、澪の背に手のひらをあてて、転ばないように彼女を支えた。
淡い光が部屋を満たし、ピンクの薔薇が、どこまでも自然な甘い芳香を漂わせている。
この薔薇は、すべて最後に澪にプレゼントされることになっている。
思ったより多かった薔薇の量に、これだけの花が俺の車に入るだろうかと考えて、深沢は心配になった。
ありがたくも哀しいことに、ふたりが座ってすぐに、注文した通りに、バイオリンとビオラを持った者達が現れ、列の最後の男がグランドピアノの前にかしこまって座った。
ややあって、ふたりのためだけの演奏が始まった。
深沢は冷や汗が出てきた。
この依頼をしたときの自分は、何かに取り憑かれていたか、狂っていたとしか思えなかった。
最初の料理が出てきて、ワイングラスをかち合わせる時、ここに来て初めて、深沢は澪をまともに見た。
クリーム色だったはずの澪のワンピースがピンク色になっていて、深沢は驚いた。
「澪、服の色が…」
澪が自分の服を見下ろして、彼に向いて笑みを浮べて頷いた。
「光が淡いピンク色、だからみたい」
深沢はそんな澪を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
澪はこの店を気に入っているようだ。
すべてが彼女のための演出なのだから、澪が満足なら…
「ところで澪、俺の呼び名のことだけど…」
ここに来て、澪は三度、深沢のことをフカミッチーと呼んだ。
そのたびに、楽団の連中がぐっと笑いを堪えるのを彼は目撃していた。
「フカミッチーのこと?」
「ブッ」という一つではない噴き出す音と、コホコホという慌てたごまかしの咳が、甘いメロディーの中に響いた。
演奏が中断しなかったところは、さすがプロと言えるかもしれない。
「そう、そのフカミッチー。頼むからやめてくれないかな」
不服そうな澪に、深沢は続けた。
「俺は、澪の声で道隆って呼ばれたいんだ。他のやつと言葉は同じでも、澪の声と唇で呼ばれるのは、俺にとって、特別…なんだ」
深沢は特別と言う言葉に力を込めて言った。
楽団の間から「ほーっ」という酷く感心したような呟きが、ハモって聞こえ、深沢はめまいがした。
思わず楽団を睨みつけた深沢は、クスンクスンという声に驚き、澪に振り返った。
澪が、ピンク色の頬に、ピンク色に光る涙の粒を、ポロポロとこぼしていた。
深沢の胸がきゅーんと痺れた。
彼は自分の上着のポケットに手を突っ込んだ。手渡すなら、いまだと思った。
その時、黒服の男がすべるような動作で深沢の横に着いた。
「お料理のお味はいかがですか?お嬢様」と、澪に向けて聞く。
「あ、と、とっても美味しいです」涙を慌てて拭きながら澪が言った。
深沢は黒服の男を、澪に分からないように睨みつけた。
まるで諭すように、男は小さく首を振った。
阻止された? こんなのありか?
納得の行かないまま、もう一度自分が頼んだこれからのプログラムを思い返した。
後悔が湧いた。
黒服の男が、予定通りにことが運ぶよう監視しながら、にこやかな笑みを浮べて深沢を見つめ返している。
深沢は拳を固めた。
ぶん殴るとすれば、この依頼をした己しかないことが哀しかった。
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