その6 溢れる愛
澪の心はドキドキしっぱなしだった。
こんなにロマンティックな体験は初めてだ。
目の前に座っている深沢は、いつもよりさらに素敵だった。
きっちりとした背広を着込み、長めの前髪が彼の瞳を半分隠している。
とらえどころのない表情をした深沢は、運ばれてくる料理を淡々として口に運んでいる。
澪の方はと言えば、胸がいっぱいで、せっかくの素晴らしい料理なのに、なかなか喉を通っていかなかった。
素敵な演奏にうっとりして頬がしまりなく緩んでいるのに気づくたびに、澪は姿勢を改め表情を引き締めていた。
食事の最後には、レースのような縁取りの入った豪華な磁器のトレーに、楽器を演奏していた人たちが、小さなデザートの器をひとつずつ持ってきて乗せていき、そのままテーブルの周りを囲むように立った。
微かなやさしい音楽が部屋を流れている。
嬉しさを噛み締めて深沢を見た澪は、彼の前にトレーがないことに気づいた。
「えっ…わたしだけ?」
誰も返事をしなかった。
それどころか、なぜか深沢の顔が引きつっているように見えた。
この場の妙な雰囲気に、澪は落ちつかなげに身動きした。
「えっと…」
澪がそう声にした時、深沢の隣に立っている黒服の男のひとが少し身動きしたのに気づいて、澪は男のひとの顔を見上げた。
澪に向いてにこやかに微笑み返してきた口元が、強張っているように思えた。
「澪」
深沢の声に救われた思いで、澪は彼に向いた。
「俺はデザートを断ったんだ。澪、食べていいんだよ」
「そうなの?」
澪は、深沢に、それから周りを取り囲んでいるみんなを順に眺めていった。
こんなに間近で見られていたら食べづらいし、みなが顔を引きつらせているように思うのは、彼女の思い違いなのだろうか?
澪がスプーンを手に取るのを待っていたようなタイミングで、するするとみなが元の位置に戻っていった。
澪は、キョロキョロと周りを見回し、首を捻ってから、チョコレートムースをスプーンですくって口に入れた。
「おいしいぃ」
スプーンを片手に持ったまま、澪は両手のひらで頬を包んだ。
「あの…わたし、こんなにロマンティックな体験初めて。み…」
「み?」
澪は、頬がかーっと熱くなってゆくのが分かった。
恥ずかしさに逃げ出したかったが…
「道隆…」
ありがとうの言葉が続けられなかった。唇が震えて言葉にならない。
いま分かった。
みなが口にするからとか、そんなのじゃなかった。
ただ、彼の名を呼ぶことが、できなかったのだ。
深沢の名前は特別だった。
「道隆…」
口にするたびに、胸が溢れてくる愛で甘く痺れるように震える。
深沢が立ち上がった。
彼は涙をこぼしている澪の隣に来て、スプーンを持った彼女の手を掴み、その手に何かを握らせた。
澪は、手を自分の目の前まで持ってきて、ゆっくりと開いた。
手からスプーンが落ちたが、澪は気づかなかった。
深沢の唇が耳に触れそうなほど近付き、聞き取れないほど潜められた声が聞こえた。
「俺が死ぬまで、その声で囁き続けてくれるね」
人間が恥ずかしさのあまり死ぬことがあるとしたら、まさにあの瞬間だっただろうと、口元にシニカルな笑みを浮べて、眠ってしまった澪を抱きしめながら、深沢は思った。
あれを成功と呼ぶには、あまりにも心の負荷が大きすぎた。
だが失敗だったとは言えない。澪は、過ぎるほどの幸せを味わったようなのだから。
どれだけ催促されても、あのトレーの中央に指輪の箱は置けなかった。
それをしたら、最後な気がしたのだ。なぜなのかわからないが…
あの最悪に気まずい空気の中、指輪の箱を渡す気持ちは完全に失せていた。
澪が彼の名を呼ばなかったら、きっと…
澪の華奢な肩をそっと撫でながら、彼女の薬指で光る指輪を見つめて、深沢はほっと息を吐いた。
寝室の中はピンクの薔薇でいっぱいだ。
車にすべて積めた事も奇跡な気がしたが、帰ってきてから、これだけの量の薔薇を、活けられる容器を集めるのは大変だった。
澪がいくつか花瓶を持っていたが、そればかりではとても足りなかった。
部屋に溢れかえった薔薇を見て、夢見心地になっていた澪を思い返して、深沢は微笑みを浮べた。
ひどく喉が渇いていた深沢は、どうにも我慢できずに、しぶしぶ澪から身を離してベッドから起き上がった。
澪の愛らしい唇にひとつキスを落として、キッチンに向かう。
冷蔵庫を開けて中をのぞきこんだ深沢は、冷蔵庫のドアを掴んだまま驚いて立ち竦んだ。
きれいに盛られた料理の皿が、幾皿も入っている。
深沢は苦笑した。
「澪…馬鹿だな。一言くらい、文句言えば良かったのに…」
あまり馴染みのない感触が、彼の頬を伝った。
End
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