恋に狂い咲き
その2 触れあった手



最寄の駅から会社まで、徒歩十分の距離がある。

町の中心から少し離れたところにある会社には、充分な駐車場が完備されていて、大多数の社員は自分の車で通勤している。

だが免許を持たない真子には、車通勤は出来るはずがない。

取ればいいと言われるけれど、どうしてかその気になれないのだ。
というか、自分が車を運転するということ自体、ありえないことと思えてしまう。

車が無いことにさほど不便も感じていない。
雨の日や寒風吹き荒ぶ日などは少々辛いものの、歩くのは好きだし、いい運動にもなる。

冬から春になるこの時期独特の風の香り、そして頬をくすぐる風の心地良さ、肌に感じる日差しの暖かさ。

車を運転していたら、運転に必死でこれらのものを味わうゆとりをなくしてしまいそうだ。

真子は会社のすぐ近くに新しく出来た、コンビニへと入って行った。
この店が出来て、とても便利になった。

寝坊してお弁当を作りそこね、仕事が押して昼食を食べに行く時間もない時には、ここがあるから助かる。

今朝は寝坊してしまい、何も食べてこなかった。何も食べずでは、昼までが辛い。
お腹の虫が鳴き出しでもしたら、恥ずかしくて仕事どころではなくなる。

店内に入った真子は、パンの陳列棚から、好みの菓子パンをふたつ手に取り、飲み物の並んだ棚のところへと移動した。

ウーロン茶と、たしかこのあたりに…

ガラス越しに目的のものを探していた真子の目の前に、突然誰かの顔が横向きに掠めた。

真子は驚いて頭を引いた。それこそ、数センチの距離を掠ったのだ。

目の前に、長い首があった。そして白いカラーの襟と黒っぽい背広の襟。

その傍若無人な人物は、目的の飲み物を見つけたのか、ゆっくり前かがみになっていた身体を元の場所へ戻しがてら、真子に向いた。

「失礼した」

低いよく響く声だった。真子の胸の底に沁みこむような。
その短い言葉に、背筋までぞくりとした。

眼鏡の奥の目はとても鋭く、なぜだか異様に怖さが増し、真子は「いえ」と声にもならない返事を返して目を伏せた。

彼の視線が彼女をじっと見つめているのが気配で分かり、真子の心臓は勝手に暴走を始めた。

彼の手が持っているものを見て、真子は「あ」と小さな声を上げた。
彼女が買おうとしていたドリンクゼリー。

それに気づいたのか、相手が持っていたドリンクゼリーを真子に差し出してきた。

「君もこれを?」

「あ、…はい」

真子は差し出されたドリンクゼリーに、遠慮がちに手を差し出した。
けれど、手に触れるというタイミングで、それはすっと上に上がり、彼女は「え?」と叫びながらそれを目で追った。

ふたりの目が合った。
彼の瞳は、含んだ笑いを浮べているように見えた。
真子は戸惑ったまま、彼の顔を見つめた。

整った顔立ち、すっきりとした目。そして意志の強そうな口。
そして、冷たく刺すような瞳の光。

真子は、さらに戸惑いを深め、差し出したままの手をゆっくりと引いた。

彼の手が動いた。
彼は真子の手を取り、上に向けると、彼女の手のひらにドリンクゼリーを置こうとする。
真子はビクリと震え、反射的に手を引いた。

ドリンクゼリーが、ふたりの足元に落ちた。

相手が不審な顔をし、いささかとがめる様な目を彼女に向けてきた。

真子は手にしていた商品を棚に突っ込むようして置くと、そのままその場から逃げた。

コンビニを出て会社の玄関に飛び込み、真子はその勢いのまま更衣室に駆け込んだ。

始業時間10分前。更衣室は満杯だった。
馴染みの顔を見て、極度の緊張から開放され、一気に安堵が押し寄せた。

いつも出社ぎりぎりの奈々子も珍しいことにすでにいて、愉快そうに真子をからかう。

「わたしの方が早いなんて、こんなこともあんのねぇ。でもまだ10分あるよ。そんなに急がなくても大丈夫だって」

「はぁはぁ、そうだね…はぁはぁ、あー息、苦しい」

真子は切れ切れに息継ぎしながら言うと、着替え始めた。

走ったためと思ってくれるだろうか、火がついたように頬が熱かった。

先ほどの男性の手と触れ合った彼女の手は、いまだに軽く痺れ、ジンジンするような感覚まで残っている。

彼の手に触れた瞬間、自分の背筋を走った強烈な震えは、いったいなんだったのだろう?

真子は彼の冷たい眼差しを思い出して小さく震えた。
何もかも見透かしたような瞳。

真子は自分を落ち着かせた。
通りすがりのひとだ。もう二度と会うことはない。

あのコンビニにも、しばらくは行かずにおこう。そう考えると、少し安心出来た。


始業間近だというのに、更衣室の中は異様に盛り上がっていた。
真子は、古びたロッカーの癖のある鍵を、慣れた手つきで開けて着替えを始めた。

この会社の備品は、どれもこれも創業時のものではないかと思うくらい古めかしい。
赤錆がところどころについたロッカーも、更衣室の室内の壁も、掃除が行き届いているにもかかわらず、薄汚れた雰囲気が拭えない。

その代わり、お客様が出入りする範囲は、見事なほど近代的で、一階の玄関のロビーなどを見ると、この更衣室の有様など思いも及ばないだろう。

だがこれが現状だった。
客が入ってこない職場の備品は、リサイクルショップに持ち込んでも断られるくらいのものばかりだ。

パソコンやコピー機などは、仕事に差し支えるので新しいものを支給されているが、机や椅子は、さすがにこれはないだろうと首を振りたくなるくらい古ぼけたものまで、いまだに使用している。

着替えている真子の耳に、興奮した会話が飛び込んで来た。

「人事部の萩原が言ってたけど、かなり切れ者でやり手らしいよ」

「うちの会社、どんどん変わってくね」

奈々子が会話に混ざり、真子は着替えながら視線を奈々子に向けた。

「昨日来た、新しい専務のことよ」

問い掛けた真子の視線に、奈々子が答えてくれた。

「ほんと、なんか嘘みたいだよね。独裁者みたいな前社長が一ヶ月前に亡くなって、新しい社長が親会社からやって来て、うちの会社、うなぎのぼりの急成長」

「うん、ほんと。社長ひとりが変わるだけで、会社の経営って、こうも違ってくるもんなのね」

たしかに、社の雰囲気は、見事なほど明るく変化していた。

「この調子だと、わたしらの給料もさ」

「うんうん。そうなったら、なに買おっかな」

「給料上がってからいいなよぉ」

奈々子の言葉に、みんなが声を上げて笑い合った。
ひとつ上の先輩にも遠慮会釈ない奈々子だが、その性格ゆえに誰からも好かれている。

「それでさ、専務のことなんだけどさ。昨日、人事部の萩原、会ったらしいんだけど、かなり若かったって」

「へーっ。結婚してんのかな?」

「どうだろうねぇ。だけどさ、独身だったら、あの秘書課の連中の誰かに食われちゃうに決まってるわよ」

「そうそう、堤女史なんか、まったく節操なしだし…」

堤の噂を聞き知っている幾人かが、潜めた笑いをあちこちで洩らした。

「エリートで独身。彼女が手を出さないはずないって」

「腹が立つことに、彼女が目をつけた男は、たいがい落ちる」

今度は妬みと諦めの混じったようなため息がいくつか聞こえた。

秘書課は、この会社の特殊な部署として位置づけてある。

この社は美女が多い。
キレイが当たり前、美人がいて、そのまた上の美女がいる。

社の雇用規定に、キレイであることという項目でも記載されているのではないかと勘ぐりたくなるほどだ。

女性社員は能力より顔で選ぶ会社と、口にしないけれど、みんなそう思っているふしがある。

その美女の頂点にいるのが秘書課の子たちなのだ。
その華やかな雰囲気は半端ではない。

先ほど名前が出た堤など、彼女の気持ちひとつでグラビアモデルとしてデビュー出来そうなほどの華やかさだ。

彼女の性格についてはあまり良い噂は聞かないが…

6階にあるという、真子にとって雲上の部署に在籍する堤と顔を合わせる機会すらほとんどないし、ましてや話す機会などこの先もありそうもなかった。

「みんな聞いて聞いて」

突然ドアが開き、嬉しげに顔を輝かせた総務の子が飛び込んできた。

「どうしたの?」

「新しく来た専務らしきひとと逢ったの。すっっっごいイケメン」

「えー、どこにいたの?」

「わたしもみたーい。年齢はどのくらい?」

「うーん、三十前後ってとこかなぁ」

「独身?」

「知らないわよ。でも所帯じみちゃいなかったわね。背が高くて脚が長くて、すらっとしてて、キリッとしてて、眼鏡掛けてて、なんか視線だけで心臓バキューンって感じ」

「なんじゃそりゃ」

真子の隣で、奈々子が眉を寄せて呟いたが、キャーキャー言う悲鳴のよう叫びで更衣室内は、異様な盛り上がりを見せた。

玄関のロビーで見たと聞くと、大半が更衣室から飛び出て行った。

真子は苦笑しつつ、バッグを開けた。

「あっ」

「どうした?」

「眼鏡忘れちゃった」

「眼鏡?コンタクトでしょ?」

「今朝寝坊して、いろんなもの端折って支度したもんだから」

真子は、バッグの底をさらにさぐった。

「…コンタクトを入れたポーチを忘れたってことには、電車の中で気づいたんだけど…。眼鏡のケース、このバッグに入れてると思ってたのに…どうしよう」

「あっ、そうよ。我らが上司の吉田課長、三つくらい持ってたよ。なんか百均で売ってたって、えらく自慢してたし」

「奈々ちゃん、それ老眼鏡。わたしは遠視じゃなくて近視」

「え?眼鏡って種類が色々あんの?」

「そう、色々あるの」

「あはは。そうなんだぁ。でもさ、眼鏡は眼鏡じゃんか。一度、課長に借りて試してみたら、案外使えるんじゃないのぉ?」

「あはははは…」

真子は二の句が告げずに、反射的に笑い出した。
奈々子まで笑いに参加してきて、真子は奈々子の鼻の頭を、指先で思い切り弾いてやった。

「いったーい。なにすんのよー」

「もう一度、中学校で理科の勉強やり直して来いっ」

真子はセカンドバッグを掴むと、ギシギシと軋む音を無視してロッカーをなんとか閉め、そのまま更衣室を出た。

「えーっ。どうしてよー?」

頬を膨らませた奈々子は、ぶつぶつ言いながら真子の後ろに続いた。




   
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