恋に狂い咲き
その3 意外な届け物 



10時の休憩になるまでに、真子は通常時の十倍は疲労していた。

いつもすっきりとした視界の職場が、ぼやけた世界に様変わりして、人の顔も判然としない。

声だけが頼りの会話は、自分の視線をどこに向けていればいいのか分からず、精神的にもひどく疲れた。

「どうしたの。そんなにパソコンに噛り付いて。芳崎さん、よほどお腹空いてるの?」

お腹は確かに空いていた。
野本の的を射たからかいに、真子は笑顔を浮べた。

「お腹空きすぎて、キーボードが板チョコに見えます」

「朝飯抜きなのか?」

真子は素直に頷いた。

「ダイエット?」

「いえ。違います。寝坊しただけです」

真子の正直な告白に野本は苦笑し、「ほら」と何か差し出してきた。

戸惑っていると、真子の手を取り、ぽんと手のひらの上にそれを置く。

アーモンドの一粒チョコが三つ。

コンビニと同じシチュエーションに真子はどきりとした。
けれど、コンビニの時のように、背筋に震えが走ったり、手がジンジンすることはなかった。

真子は、コンビニでの、あのおかしな感覚の不思議さに、内心首を傾げた。

「さっき、庶務課の子にもらったんだ」

「ありがとうございます」

この差し入れは、野本に思いを寄せている子の差し入れなのだろうか。
その子に申し訳ない気もしたが、せっかくの好意を真子はありがたくいただくことにした。

「真子、コーヒー買ってきたよ。はい」

「ありがと。奈々ちゃん」

「これで芳崎さんのお腹の虫も、昼までおとなしくしててくれそうだな」

お昼…忘れていた。

社には食堂の設備はない。あのコンビニに行くしかないだろうか?

「芳崎さ〜ん」

呼びかけに振り返ると、いつも社内便を振り分けてくれる、他の部署の子だった。
彼女は真子に、大きめの社内便の箱を差し出している。
覚えのない真子は戸惑い、受け取れずに両手をあげた。

「え、これ?」

「社内便です」

社内便なのは見れば分かるのだ。なぜ社内便が真子に来るのだ。
これまでこんなことは一度だってない。

「でも、芳崎真子って書いてあるんです。受け取ってもらえないと、わたしも困るんですけど」

腑に落ちないまま真子は受け取った。裏返して見たが差出人の明記がされていない。

「誰から…?」

「あら。おかしいですね。差出人の明記がされてないと、社内便出せないはずなのに…」

「なんか。開けるの怖いんだけど…」

真子は、興味津々で箱を見下ろしている奈々子と野本に目を向けて言った。

「もおぉう、イライラするっ。かして、わたしが代わりに開けたげる」

奈々子は箱をさっと取り上げ、躊躇なく開けた。

「何これ?」

箱の中から奈々子が取り上げたものをみて、真子は冗談でなくひっくり返りそうになった。

菓子パン!

その菓子パンには覚えがあった。
真子は、すばやく箱の中身を確かめた。

菓子パンがあとひとつ、ウーロン茶、そしてドリンクゼリー。

有り得ない!

真子の全身に鳥肌が立った。


昼の休憩時間。真子は、差出人不明の菓子パンを食べ、恐る恐るウーロン茶を飲んだ。まさか毒は入っていないだろう。

差出人不明とはいっても、この品物を真子に届けられるのはひとりしかいないはずだ。
あの時コンビニで会った男性。

通りすがりのひとでは無かったのか?
あれはいったい誰だったのだろう?

届けてきたということは、相手は真子を知っているということだ。顔も名前も職場さえも。

不明瞭な出来事に怖さが増してきて食欲が無くなり、真子は菓子パンを半分食べただけで食事を終えた。

「みんな話がある。こっち向いてくれ」

吉田課長がみんなに声を掛けて来た。
昼休みも残り五分というところで、社の外に昼を食べに出かけていた者も全員戻って来たところだ。

「人事異動の辞令が来た」

真子は突然のことに驚いた。回りもざわめき始めた。
この時期に人事異動など例がないし、なぜ今?

「親会社の方から、新しい専務が来たことはみんな知ってるだろう?」

みんながめいめいに課長に向けて頷いた。

「専務の補助をする社員を五名、各職場からひとりずつ選抜したらしい。あとは…」

吉田は、持っている書類を捲りながら説明してゆく。

「仕事に支障の無いよう、徐々にだが職場の改装を始めるらしい」

その報告を聞き、ざわめきに明るさが増した。

「それとだ」

吉田の大きな声に、みんなが口を閉じて注目した。
改装の一言が効いたらしく、みんな瞳を煌かせている。

「資格の取得推進もするらしい。届出書がここにある。申し込んで受講して、受講終了証を提出すれば、費用は全額、社が負担するそうだ。詳しいことはこの書面とこの本に書いてある。芳崎君、これみんなに配って」

課長のほぼ隣に座っている真子は立ち上がり、分厚い本を受け取ると、みんなに一冊ずつ配った。

奈々子は、受け取る時に興味なさそうに鼻の頭に皺を寄せていたが、真子はわくわくしていた。
タダで資格を取得出来るなんて、願ってもない大チャンスではないか。

「それで、課長。この部署から異動になるのは…誰なんですか?」

奈々子が聞いた。資格の本より、よほど興味があるといいたげだ。

「野本君だ」

「僕…ですか?」

「ああ。急なことだが。明日からそちらに行くことになる。君の仕事は…芳崎君」

「はい」

「大変だと思うが、君が一番適任だろう。君が引き継いでくれ」

「課長、彼女ひとりでは無理でしょう。いま彼女がやっている仕事もあるんですよ」

野本が真子を庇うように言った。

「わかってる。今日のところは引継ぎだけだ。君は明日からいなくなるんだぞ。君の仕事を今日中にすべて飲み込んでくれるのは、君の補助をしていた芳崎君だけだ。明日から全員に少しずつ配分するから心配するな、野本」

からかうような吉田の言葉に、なぜか野本が赤くなった。

「君は君で、新しい仕事に頑張れ」

野本は、顔をしかめ、ちらりと真子に向いてきた。真子は笑みを見せて頷いた。
彼にとってこれは、大チャンスだろう。

「わかりました」

しぶしぶといった口調で野本が言った。


終業時間いっぱいまでで、真子はなんとか野本から仕事を引継きついだ。
すべてを把握したといえるほど自信はないが、なんとかするしかないだろう。

野本は分からないことがあれば、いつでも社内メールか携帯で聞いてくればいいと言ってくれた。

就業時間が終わると、野本は新しい上司の専務に呼ばれたらしく、すぐに職場を後にした。

真子はそのまま残業した。
引継ぎ作業のおかげで、真子の本来の仕事はまったく手をつけていないのだ。
このままでは明日の仕事に響いてしまう。




   
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