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その4 邂逅(かいこう)
突然、なんの前触れも無く室内の電気が消えた。
仕事に没頭していた真子は、驚きに鋭い悲鳴を上げた。
「誰か…いるのか?」
暗がりの中に響いたその声に驚き、真子は声の方向に振り返った。
非常灯の薄暗い明かりの中、開けられたドアのところに人の輪郭がぼんやりと見えた。
「あの。どうして電気が?」
驚きいっぱいでそう言ったものの、相手の声に覚えがあって、真子の声はひどくか細かった。
「知らないのか?10時には必要でない電気は落とされるらしいぞ」
「10時?いま10時なんですか?」
「ああ。こんな時間まで何やってるんだ。警備の人間が来たら見咎められるぞ。社内の極秘の情報でも盗もうとしているんじゃないかってね」
男は話しながら少しずつ、真子の方へと近付いてくる。
真子の身体が緊張して固くなってゆく。
「まさか。そんなことしません」
「…やあ、やっぱり君か」
薄暗い中とコンタクトを入れていないせいで、回りの景色はほとんど見えなかったが、相手が誰であるかは、もう疑いようが無かった。
椅子に座った彼女の前に男は立ちはだかり、真子を見下ろして来る。
「あ、あの」
「僕は、飛んで逃げなきゃならないような、何をしたかな?君に…」
いくぶんとがめるような言葉に対して、真子は答えられなかった。
彼がぐっと顔を寄せてきた。
まるで真子の怯えた表情を確認するためのように…
「お昼の食事は、無事に届いたかい?」
「ど、どうして…」
「あれか?君が買い損ねたみたいだったから、届けただけだ。昼飯がないと、腹が減って仕事にならないだろうと思ってね」
真子は小さく首を振った。
「あなた、どうしてわたしを知ってるの?どうしてここにいるの?」
「社員名簿で確認した。それと、ここにいるのはこの社に配属されたからだ」
「…まさか…」
「まさか、なんだ?」
「…専務?」
相手の両手が真子の首を掠めて、彼女の座っている椅子の背もたれを掴んだ。
ふたりの顔がぐっと近付いた。
「ご名答」
その言葉とともに、相手の息が真子の頬に触れた。
「か、帰ります」
「そうか。どうぞ」
そう言いながらも、相手の腕は真子の首を挟みこんだままだ。
この状態では身動き一つ出来ない。
唯一移動できる前に向かえば、ただでさえ間近にある相手の顔に、自分の顔を近づけることになる。
「あの。このままでは動けません」
喉が異様に渇き、掠れた悲鳴に近い声になった。
彼にからかわれているのは分かった。
けれど、このからかいには、否定できない怖さがある。
「キスは好きか?」
真子は一瞬唖然とした。目を見張って首を小さく横に振った。
「からかうのはもうやめてください」
「好きか嫌いかと聞いてるだけだ。答えたら自由にしてやろう」
自由の言葉に、思わず真子は飛びついた。
「ほ、ほんとに?」
「ああ。もちろんだ。だが嘘はつくなよ」
相手が目をぐっと眇めた。マジで怖かった。
嘘をつくな?
なんと答えればいいのだ?
「好きか、嫌いか…わ、分かりません…」
口にした途端、頬が真っ赤に燃えた。
「分からない?どうして?」
相手の右側の口の端がきゅっと上にあがった。その時やっと分かった。
この男は、込み上げる笑いを必死で堪えている。
「…楽しいですか?」
「うん?」
「わたしをからかって、そんなに楽しいですか?」
激情に駆られて怒鳴ったためか、凄い勢いで涙が出てきた。
真子の震える両肩に彼の手が掛かった。
彼女はビクンと震えた。
「悪かった。謝るから」
相手のこれまでとうって変わったやさしい謝罪の言葉に、真子の気が弛んだ。
そのせいか、涙が止まるどころか、さらに湧き上がってくる。
椅子ごと、彼の腕が真子をそっと抱いた。古びた椅子が、軋んだ音を立てた。
気持ちが混乱していたためなのか、真子はなんの戸惑いも無く、彼の抱擁を受け入れていた。
静かな室内に、真子のすすり泣きの声だけがひそかに響く。
「すみません」
涙が止まったところで、真子は無意識に言い、すぐに眉をしかめた。
「謝ることなかったわ」
まるで謝った自分を叱るように言った真子に、相手が吹き出した。
いつの間にやら、二人の身体は密着し、お互いの肩の上に顎を乗せている状態だ。
それに気づいた真子は、慌てて彼の身体を押しやろうとした。だが、男は真子を離してくれない。
「あ、あの?」
「しっ、静かに」
相手が声にならない声で言った。
「えっ?」
「声、潜めて。足音がする。警備員だ」
耳を澄ませると、たしかに遠くで響く靴音が聞こえた。
「帰らないと…」
「いま見つかると不味いことになる。それに、君も、こんなところで男と抱き合ってたなんて知られたら、困る相手がいるんじゃないのか?」
「そん…」
声を張り上げようとした真子は、口を相手の大きな手でふさがれた。
「よほど見つかりたいんだな」
「そ、そんなことありません」
真子は、口をふさがれたまま、もごもご言った。
「このままじゃまずい」
彼はそう言うと、真子の了解も取らずに、彼女の口をふさいだまま、椅子から降ろして床に座らせた。
そして机の下に引きずりこもうとする。
もちろん真子は抵抗した。
「こら、暴れるな。警備員が来るぞ。じっとしてろ」
その言葉は、真子の耳元で囁かれた。
囁かれたというより、囁き声で怒鳴られたという方があっていたが…
真子は耳を押さえて真っ赤になった。彼の唇が彼女の耳をかすったのだ。
ドアが開く音がした。続いて長い光の帯が左右にゆっくりと動く。
真子は石のように身体を硬めて、安全を得ようとでもするように、男の胸にぐっと背中を押し付けた。
それに応えるように、男の腕が真子をぎゅっと抱き締める。
男の微かな息遣い。そして首筋に温かな息が触れ、真子は一瞬逃げようとしたが、足元に伸びてきた明かりに怯え、お尻をこれ以上無理なくらい後ろに引いた。
足をぐっと縮め、男の腕の中に身を隠す。
息の詰まるひと時のあと、光の帯が退散し、ドアの閉まる音がした。
息を詰めていた真子は、自分の胸の前で交差している男の腕におでこをくっつけて、大きく息を吸った。
「狭いな」
「あ。すみません。いま出ます」
「ああ。こんなに狭いところじゃ、襲おうにも、襲えない」
「は?」
襲う…?何をさしてそう言うのだ…この男は…
「気にするな冗談だ。ただ、密着してたら、その気になった。僕の一部分だけだが…」
「は?」
「もちろん僕の意志じゃない」
「あの、何をおっしゃってるのか…」
「君、処女?」
この男に対して、急激に身の危険を感じた真子は、焦って机の下から這い出そうとした。
だが、がっちりと身体を抱き締められている。
「なにもしない。その気になってるのは一部だ。まだちゃんと理性も残ってる」
「まだ」ってのはなんだ? 「も」ってのは?
「暴れて僕の一部分を刺激しない方がいいぞ。それに、逃げようとするものは追い詰めたくなるもんだ。理性がぶっ飛ぶかも知れない。言っておくけど、そうなったら僕は責任もてないぞ」
「それって、おかしくないですかぁ」
相手がくくっと笑った。
「君のイントネーションの方がおかしいぞ」
いえ。おかしいのはあなたです。絶対あなたです。真子は胸の内で抗議した。
「話をしよう。その方が気がまぎれる。どうせすぐにはここから出られないんだ」
「ど、どうして?」
「警備員は、12時まで詰め所に座ってるはずだ。その前を堂々と通ってゆけると思うか?」
真子は首を横に振った。
「すべての職場を見回って、誰もいないのを確認しているのに…いったいどこにいたんだって話になる」
真子は首を縦に振った。
「だから、詰め所前を12時より早く通るわけにはゆかない。当然僕らは12時が過ぎるまでここでおとなしくしているしかない」
「で、でも、そしたら終電が。わたし帰れなくなります」
「心配ない。僕が送って行く」
「すみません。助かり…」
お礼を言おうとした真子は、途中でやめた。
この男に、なんでお礼を言わなければならないのだ。
「何でお礼なんか言うのよ」
真子はまた自分に向けて叱った。
「面白いな」
「面白くなんか…」真子の口はまたふさがれた。
「声が大きい」
「すみ…」
言いかけた真子は、むーっとして黙り込んだ。
「言っておくが…」
「なんですか?」
「こんなことになったのは、君のせいだぞ」
「どうしてですか?あなたの…」
「君が、こんな時間まで残っていたからだ」
「残業してたんです。今日同僚がひとり…そうよ。あなたのところに異動になって…それで、その仕事がわたしに回ってきて、自分の仕事がぜんぜん出来なくて…だからこんな時間になっちゃったのよ」
真子は相手をぎっと睨みつけた。
「あなたのせいじゃないですか」
「それは悪かった」
あまりにあっさり謝罪され、真子はかえってカチンと来た。
「その顔、ぜんぜん謝ってませんよ」
真子は相手の憎たらしい顔を両手で抓り上げた。
「いたたた。何する…」
真子は、バシンと音がするほど勢い良く、手のひらで相手の口をふさいだ。
「声が大きいですよ」
してやったりと笑った真子の手のひらに、馴染みのない感覚が走った。
男の舌が手のひらを舐めたのだ。
「ひっ…」
悲鳴が職場内をつんざく前に、男の唇が真子の唇を塞いだ。
真子は唖然としたまま目を見開いて固まった。
唇を塞いだ相手の男も、目を開いたままだ。
「目、閉じて」
完全に石化した真子に、唇を合わせたまま男が言った。
真子は男の望みどおり、目を閉じた。そして、そのまま意識を失った。
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