恋に狂い咲き 目次


  恋に狂い咲き
その6 とんでもない一日の終わり



和磨の反省は本物だったのか、ファミレスで食事をする間、彼は真子をからかうようなことはしなかった。

その代わり、ひどく近寄りがたかった。
眼鏡の奥の瞳も、真子に向けられることはなかった。

いまの和磨は、先ほどまでの彼と同一人物なのだろうかと疑いたくなるほどだ。

「どうした?」

黙々と食事をしていたはずの和磨の声に、真子ははっとして顔を上げた。

「はい?」

「いま、ため息をついただろ?僕と一緒では、食事もうまくないか?」

「そんなこと…」

「キスをしたことが許せないか?」

真子は黙り込んだ。

そのことは、不思議なくらい気にしていなかった。
けれど、そんなことはないと言うのもおかしなものだろう。

「良く分かりません。突然だったし、いまも現実のことと思えないです」

「嫌だったか?」

真子はまた黙り込んだ。
どうして彼は、こうも返事をし辛いことばかり聞いてくるのだろう。

真子の指は、自然に自分の唇に触れていた。

嫌悪は感じなかった。
真子は目の前にいる和磨をちらりと見た。

真子の唇を見つめていたらしい和磨が、彼女の視線を感じたのか視線を上げて真子と目を合わせた。

「…そんなことは…なかったです」

真子は唇を尖らせて、ぽそぽそと口にした。
言葉にし終えた途端、恥ずかしさが込み上げてきて、真子は真っ赤になった。

「ん」

和磨は言葉にならない返事をすると、また食事に戻った。

中途半端な沈黙に包まれ、真子は心地悪かった。





「え?いま、なんて?」

真子は聞いたことを受け入れられず、和磨に聞き返した。

「今夜は君のところに泊めてもらうって言ったんだ」

「ありえないです。わたしは女で、あなたは男性です」

「そんなこと関係ない。僕は君に付き合ってたおかげで…まあ、君に言わせればそれは僕のせいということだが。とにかく僕は、今夜泊まる場所を確保しそこなった」

「あなたの家は?」

「ここから2時間ほどかかる。いま1時半だ。これからそこまで帰ると3時半。風呂に入って寝るのは4時過ぎる。明日また出勤時間に2時間掛けるとすれば、僕は寝られない。仕事は山ほどある。社に行ってから居眠りなどしていられない」

車の中で…という言葉を真子は飲み込んだ。
送ってもらった自分はベッドで休むのに、いくらなんでもそんなことは言えない。

「でも…ベッドはひとつしか…。お客様用のお布団ないし…」

「ベッドがひとつあれば充分だ。心配するな、僕はひどく疲れてる襲ったりしない」

真子は疑わしげに彼を見つめた。
僕(理性)は疲れているかもしれないが、俺(野性)はどうだろう?

「俺って言葉に置き換えて、もう一度言ってもらえません」

真子の言葉に和磨がきょとんとした。
意味が分からないのだろう。
だが、それをしてもらえれば、なんとなく不安が消えるような気がする。

「俺はひどく疲れてる、襲ったりしないって、言ってください」

「おかしな要求だな。別にいいけど…俺はひどく疲れてる。襲ったりしない」

真子は頷いて車を降りた。
車は真子の部屋のまん前に停めた。

このアパートには、一部屋に一台ずつ駐車場が割り当ててあるのだ。
友達が車で遊びに来たときなど役に立つ。

真子は部屋の鍵を開けながら、自分の部屋の状況を思い出そうとした。

「あの」

「どうした?」

「今朝寝坊してバタバタして家を出たので…」

真子は和磨に振り返って言った。

「ああ。散らかってるって言いたいのか。僕は別に気にしないよ」

真子の視線が和磨の手に提げているものに向けられた。

大きなスーツケースとボストンバッグを両手に持っている。いつの間に…

「その荷物?」

「ホテルに泊まるつもりだったと、さっき言ったろ」

ドアを開けて和磨を部屋にあげる真子の胸に、大きな不安が渦巻いていた。

居ついたり…しないわよね。

「まさか」

「何がまさかだ?」

ワンルームしかない部屋のほぼ中央に立った和磨が、真子に振り向いて言った。

和磨の存在を受け入れた彼女の部屋は、まったく違う部屋にみえた。
真子はドギマギする胸を押さえ込みながら自分の部屋にあがった。

荷物を部屋の中央に置いた和磨が、突っ立ったまま真子のベッドを見つめている。

真子は慌てて駆け寄り、ベッドの上に置き去りになっていたネグリジェを取り上げた。

「セミダブル?」

「え?」

彼が見つめていたのはそっちだったのか?

「叔母が就職祝いにくれたんです」

「セミダブルのベッドをか?少し変わった贈り物だな」

ワンルームの部屋は十畳だ。
一人住まいならそれほどのスペースはいらないから、セミダブルのベッドがあってもそんなに圧迫感はない。

叔母がセミダブルをくれたのは真子の寝相がひどいからだが、そんなことは口が裂けても言いたくない。

「あの、お布団は、ほんとにこれしかないんですけど…」

「もう気にするな。考えても仕方がないだろ。布団は湧いて出てこないんだ」

もっともらしくいう和磨に真子は眉をしかめた。

和磨が床に腰を下ろし、ベッドに凭れた。

「君、早く風呂に入って。僕も早く入って休みたい。ほんとに疲れてるんだ」

その声から、真実彼の疲労が伝わってきた。

「この二晩、あんまり寝てないんだ」

「それなら、先に入ってください。すぐにお湯を…」

真子は急いで風呂場に行き、蛇口を捻った。


和磨と入れ替わりに風呂場に入った真子は、洗面所で服を脱ぐついでに、首筋をもう一度確かめた。

赤い痣を見つめながら、真子はため息をついた。
これが消えるまで、着る物には気をつけなければならないだろう。

気絶していたとしても、首筋にこんなに赤い痣がつくほどキスをされたのだという事実に、いままた真子は赤くなった。

早く消えてくれればいいのだが…


真子が風呂からあがってくると、すでに和磨は寝息を立てていた。

風呂上りに彼はちゃんとパジャマを着ていて、真子はほっとした。
上半身裸で出てきたりしたらどうしようと思っていたのだ。

湯船に浸かりながら、寝る前に顔をつき合わせる気まずさを思って、真子はなかなか出てこられなかったのだが、それも杞憂に終わってくれた。

和磨はベッドの半分に寝ていて、ちゃんと真子の寝るところを確保してくれている。
寝顔を覗きこんで様子を伺うと、完全に熟睡しているようだった。

昨晩も、ひどい淋しさに捕らわれて泣きながら寝たのに、今夜は…
和磨の寝息が、真子の心を満たしてゆく。

彼女は空いた場所に身体を滑り込ませた。
時計を見ると、3時に近い。

とんでもない一日にちょっぴり思いを馳せ、真子は瞼を閉じた。
すぐに眠りが訪れた。




  
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