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第二十七話 価値ある誓い
気が急いてならなかった。
賢者からの呼び出しは、いつだって曖昧なものだった。
なのに先ほどのはっきりとした賢者の呼び掛け…こんなことは初めてだ。
何か賢者の身に?そう思えて、一刻も早くと、カズマはシルバーを全速力で駆けさせた。
賢者の存在を思い出したときだけしか訪れることの出来ない湖は、まるで呼び寄せてくれているかのように時間と距離を感じさせない。
もちろん気が急いているいまも、それは同じだった。
湖の岸辺に立ち、カズマは賢者の船を捜した。
しかし、賢者の船は影も形もない。
カズマは不安から顔を歪めた。
「賢者様ぁー!」
湖に向けて叫んだが、なんの変化もない。
「いったい…」
こんなことは初めてだ。
賢者に呼ばれて来たと言うのに、賢者がいないなど…
まさか…本当に賢者の身に何か?
カズマの世界で、こんなことは、ありえてはならないことだった。
衝撃が強すぎて、身体中の血が凍ったような気すらした。
パニックに駆られたカズマは右手を上げて魔力を集めようとして、激痛に見舞われ、額に脂汗を滲ませ、冷静さを取り戻そうと大きく息を吸った。
なにやってる…落ち着け…
カズマは左手を顔の前に差し出し、顔を痛みに歪めながらも、意識を集中した。
利き腕でない左手での魔力発動は難しい。
利き腕が使えなくなった時のために、左手での魔力修練を積めとタケコから口煩いほど言われていたことが頭をよぎり、カズマは自分にむかついてならなかった。
それでもなんとか魔力を固定し、魔法を発動させた。
ガガガと汚い音を立てて、湖の中央に向かって氷の橋が伸びてゆく。
どうにか橋は出来たが、完成度が悪く、歩いて渡るのは容易ではなさそうだった。
カズマは橋の強度を確かめながら一歩踏み出し、出来うる限り急いで湖の中央へ向かった。
カズマが作った橋は途中で先細りし、これ以上進めないところまで来て、彼はもう一度魔法を発動させようとして躊躇った。
いまいる地点は、すでに湖の中央に程近い。
だが、ここからどこを見回しても賢者の船は見えない。
これ以上は無駄に魔力を使うだけだろう。
現実を認めなければ…
カズマは途方に暮れて周囲を見回し、池のほとりに人の姿があるのに気づいて目を見張った。
あれは?
相手もカズマを一心に見つめているようだ。
「マコ!」
カズマは喜びに笑みを浮かべ、マコに向けて左手を振り上げながら呼びかけた。
「カズマ様?」
微かな声が耳に届いた。
衝撃といえるほどの驚きの含まれた声…
カズマは氷の道を急いで引き返した。
マコの出現で、賢者がこの場にいないことはもう気にならなかった。
賢者はマコを呼び寄せてくれたのだ。
なかなかふたりきりになれなかったふたりを、ここで逢わせてやろうという賢者の粋な計らいに違いない。
カズマは賢者に向けて感謝の意識を飛ばしながら、橋から落ちずになんとか岸に辿り着き、湖のほとりにいるマコに駆け寄った。
「マコ」
「…ど、どうして?」
驚いているマコを、カズマは思い切り抱きしめようとしたが、腕の痛みに邪魔された。
「うっ!」
痛みに声を上げたカズマに、マコはぎょっとしたようだった。
「カズマ様?」
「なんでもない」
カズマは痛みを押して、左腕だけでマコを抱き寄せた。
「逢いたかった」
身体中から、これまで溜め込んでいたストレスが抜けてゆくようだった。
マコの香りとぬくもりが、いまこの手にある。
「どうして?」
マコの震えの帯びた責めるような声に、カズマはどきりとして顔を上げ、彼女と目を合わせた。
「マコ?」
「どうしてこんなところに…どうしてちっとも帰って来なかったの?」
いまにも泣き出しそうなマコの表情に、カズマの胸に鋭い痛みが走った。
「マコ」
「ずっと待って…待って…」
カズマはマコをなだめようと、もう一度抱きしめようとしたが、彼女は首を振って身を振りほどき、カズマから離れてしまった。
「なのにどうしてこんなところにいて…私に…私に、会いに来てくれなかったの?」
「マコ…すまない」
カズマの気まずげな謝罪に、マコは何を思ったのか顔を歪めた。
「結婚するのが…嫌になったの?」
「馬鹿な!そんなことはあるわけがない!」
「なら、どうして?」
カズマは顔をしかめた。
腕の傷のことは、絶対に気づかれたくないが…
マコにひどく心配を掛けるだろうし、どうしてそんなことになったのかと問われて嘘を付くのは…
マコが思い切りカズマを抱きしめてきて、カズマは思わず痛みに呻いた。
カズマの呻きに驚いたマコは、顔を上げて彼の顔を見つめ、カズマの身体にさっと視線を当てて、手に巻かれている包帯に気づいてしまったようだった。
「これは…怪我を?ど、どうして?」
「マコ、大丈夫だ。たいした事はないんだ。君に心配掛けたくなくて、それで傷が癒えるまで、君に逢うのを自粛していた…」
「何があったんですか?」
「ちょっとした不注意なんだ。…それよりマコ、君にこれを…」
カズマは話を逸らし、ポケットから、この傷を代償に手に入れた玉を取り出し、マコの手に握らせた。
「結婚の印に、これを君に」
マコは手のひらの上で不思議な光を放つ玉に、言葉を無くしてしばし魅入った。
その様子に、カズマはひどく満足を得た。
「どうだ。気に入ってくれたか?」
「これは…宝石なんですか?」
「そうとも言えるが…世間では、奇跡の玉と呼ばれている」
この玉がどれだけ貴重で高価なものかマコに分からせたくて、カズマは知らず驕ったように口にしていた。
「奇跡の玉?」
「ああ。俺は君に、この世に稀な、特別なものを贈りたかった。それでこれを…」
「で、でも、こんな高価そうなもの、いただいてしまっていいの?」
「もちろんだ。君のために探してきたものだ。なかなか見つからない玉なんだ。魔法の力を増幅させてくれると言われてる。きっとこれからの君の役にも立つ」
「探しにって…ま、まさか…」
マコの反応に、カズマは顔をしかめた。
彼女を喜ばせたいばかりに、余計な事を言いすぎたらしい。
「マコ」
「これを探して…その傷を?」
「たいした怪我じゃない」
言い訳のように口にしたカズマの手を、マコは傷の程度を確かめようとしてか握り締めてきた。
カズマは耐え切れずに呻いた。
「指が…?」
動かない指に気づいたマコは、真っ青になった。
「どうして…こんな無茶を?」
「だから、俺は、君に」
「腕だけの怪我じゃすまなかったかもしれないわ!」
マコは悲鳴のように叫んだ。
「マコ、落ち着け。俺はちゃんとこうして…マ、マコ?」
マコは、その手にしていた、カズマが苦労の末に手に入れた玉を、彼に向かって投げつけてきた。
玉はカズマの胸に当たり、地面に落ちた。
カズマは唖然として、憤りに肩を上下させているマコを見つめた。
「こんなものいらない」
その瞬間、カズマの頬に鋭い痛みが走った。
マコに平手で叩かれたのだ。
「馬鹿!あなたなんか、死んじゃえばよかったのよ!」
カズマは驚きが過ぎて声も出せなかった。
せっかくマコのためにと…死ぬ思いをして手に入れたというのに…
怒りの形相で唇を噛み締めたマコは、後ろに振り向きざま走り出した。
身動きできず、遠ざかってゆくマコを呆然と見つめていたカズマは、我に返ったと同時にマコを追い掛けた。
「マコ!」
カズマはすぐにマコに追いつき、彼女を背中から抱きついて捕らえた。
「放して」
激しく身を振りほどこうとするマコに、片腕しか使えないカズマは手を焼いた。
「マコ!」
「放して!」
意固地に繰り返すマコは、両目一杯に涙を溢れさせていた。
彼女らしくない、マコの罵りの言葉は、いまになって彼の胸を突き刺すようだった。
マコの言うとおりだ。俺は…
「マコ…ごめん」
「あなたが死んでいたら…死んでいたら…私はどうすればいいの。私は、私は…」
「ごめん。頼む、もう泣かないでくれ、マコ」
号泣して崩れ落ちたマコの身体を、カズマは背後からそっと抱きしめた。
愚かだった…
いまになって、激しい悔いに襲われた。
昔から運だけは良かった。
だからどんなことがあっても、俺は死んだりしないとタカをくくっている自分がいた。
だが、そんなものは、なんら根拠のない、独りよがりの高慢な自信でしかない。
「マコ、もう絶対にこんなことはしない。約束する。だから許してくれ」
マコは激しく首を振って、カズマの言葉を拒否し続ける。
「マコ、愛してるんだ。愚かだったことは認める。だが…俺はどうしても君に、最高の贈り物をしたかったんだ」
「…本当に?」
「ああ」
カズマは勢い込んで答えた。
「本当に…もう絶対にしない?」
カズマは、彼女の問いに眉を寄せた。
どうやら彼女が求めているのは、二度と無茶をしないという確約だったらしい。
マコとのこの約束は、これまで好き勝手に生きてきたカズマの行動を大幅に制限することになる。
命を賭けた冒険は心が躍る。
だが…マコとの未来と引き換えにするほどの価値はない。
マコは泣きながら、カズマの動かない手を、やさしく両手でいたわるように包み込んだ。
「しない…約束する」
カズマは疼く胸を持て余しながら、マコに誓った。
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