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『なにげなく岐路』
ゆったりとした座り心地のいい椅子に深々と腰かけ、和磨は好みの味にブレンドしたコーヒーを味わう。
「うん、うまいなぁ」
満足とともに視線を上げたら、ずいぶんとやつれた顔をした部下と目が合う。
「なんだ、疲れてるようだな。コーヒーでも飲んで休憩……」
そう言った瞬間、後頭部を叩かれた。スパコーンと小気味の良い音がした。
いてっ!
「なんだぁ?」
背後に目を向けたら、冷たい目が和磨を見据えている。
もちろん智慧だ。
和磨にためらいなくこんなことをするやつは、こいつしかいない。
「どうした?」
「室長、おおっぴらに寛ぐのは士気が下がるのでやめてくれませんか?」
手厳しくいちゃもんをつけてくる。しかも、厭味ったらしく敬語で。
「休憩は必要だ。それに私の仕事は順調。滞っていないんだから、のんびりしたっていいだろう?」
「お前はそうなんだろう。だが、みんなはそうじゃないんだ。少しは手を貸してやったらどうだ」
耳元でがなられ、鼓膜にビンビン響く。
「必要を感じないな」
そう口にしながら、和磨は軽く身を引いた。智慧から微妙に距離を取る。
智慧は和磨の言葉に反論を感じているようで、むっとしている。
「本人たちがそれぞれ自分でやらなければ、意味がない。彼らには育ってほしいと思っているからな」
部下を眺めながらそう言うと、智慧は表情を変えた。
「それは俺だってそう思ってる」
「ならいいじゃないか。必死に仕事をし、育っていく部下を、こうしてコーヒーを味わいながら眺める。俺の至福のときだぞ」
とはいえ、もう少し刺激がほしいなんてことを、ひそかに思っているところだったりするが……
ある程度、仕事が軌道に乗ってしまうと、忙しいことは忙しいが、なんとなく物足りない。
新しいプロジェクトの構想でも練るかな。
智慧がすっきりしない顔で去り、にやつきながらコーヒーを味わっていたら、携帯に電話がかかってきた。
確認すると、父親からだ。
電話に出ると、「すぐに来い」と、そのひと言で切れた。
これは何やら、楽しいことが待っていそうだぞ。
そんな予感を胸に、意気揚々と立ち上がり、父親の元に向かう。
「お呼びですか?」
ゆったりとした造りの会長室。窓は大きく最上階にあるので、眺めがいい。
「『アサミテクノ』の視察に行ってくれ」
「『アサミテクノ』? ……ああ、一ヶ月ほど前、前社長が急死して、伊藤さんが新社長として就任した会社でしたね。伊藤さんほどのひとを行かせたというので、驚いていたんですが」
「ああ。少々問題があってな。他の者には任せられなかった。常務として福永も行っている」
「ええ。知っています」
「楽しんでいるようだぞ」
和磨を楽しげに窺いながら真人が言う。
「ほお」
楽しんでいるという言葉に、興味を引かれる。
「視察の方はいつ。これからですか?」
「なんだ。それをこれから言おうと思ったのに……楽しくない奴だな」
「会長のことは、よく知っておりますから」
「それじゃあ、さっさと行って来い」
「了解しました」
即座に背を向けたら、「ああ、ちょっと」と呼び止められる。
「なんですか?」
「今の仕事は順調か?」
「はい。部下が頑張ってくれていますので」
「そうか」
まだ話があるのかと待ったが、それで終わりのようだった。
和磨は会長室を出て、自分の車が停めてある駐車場に足早に向かいながら、携帯で副室長に会長の指令で、出掛ける旨を伝えた。
ここか……思ったより立派な建物じゃないか。
和磨は「アサミテクノ」の正面玄関に立ち、独りごちる。
自動ドアを抜けると、そこは近代的な造りのロビーが広がる。
悪くはないな。
ざっと辺りを確認しつつ、和磨はエレベーターを目指した。
もちろん受付はあるが、社長室の場所はすでに聞き知っている。
社長室に難なく辿り着き、ノックをする。
「どうぞ」
伊藤の声だ。
そろそろ着くと知らせてあったから、俺だろうことはわかっているだろう。
「伊藤社長」
「ああ、和磨君、君に来てもらえることになって、本当に助かったよ。早速だが、視察してきてくれたまえ。福永常務が同行する」
「はい」
福永はすでに社長室にいて、さっと立ち上がる。
ふたりはすぐに視察に向かった。
視察を終え、社長室に戻る和磨の顔は、ずいぶんと険しかった。
フツフツと怒りが湧いてくる。
視察により、この会社の現状を把握した。あまりにひどい。
玄関やロビー、そして社長室のある階は近代的で文句のつけようのないものだったが……
いや、秘書室は最悪だったな。
社長室かと見まがうような贅沢な造りだった。
なのに、社員の働く職場ときたら……
「和磨君、どうだったかね」
「言葉が見つかりませんね」
「だろう。では、さっそく取りかかってもらえるかな?」
「はい? あの、伊藤社長……取りかかるとは?」
「うん?」
和磨の問い返しに、伊藤がきょとんとする。
「あっ、もしや、和磨君は何も聞いていないのではないかな」
和磨の隣に立っている福永が愉快そうに言う。
「ああ、そうなのかい? 和磨君、会長からは何も?」
「視察に行けとだけ」
和磨の一言に、ふたりが笑いを堪える。
どうやら、してやられたか。
「それで、私は何をやればいいんです」
「君のやりたいことを」
伊藤が茶目っ気たっぷりに言う。
この会社の視察を終え、現状を知ったうえで、俺のやりたいことか……
「どこまで実権を与えていただけるんです」
「福永常務と私は、この社の業務に集中したい。君が、この社に必要だと思うことをしてくれ」
「人事についても?」
「ああ。君の目は確かだ。必要とあらば、ばっさりやってくれてかまわないよ」
「わかりました」
「必要な書類はここに揃えてある。君は専務として赴任してもらうが……いつ着任してくれる?」
「いますぐと言いたいところですが……」
いま手がけているプロジェクトの引き継ぎも、部下に丸投げというわけにはいかない。
「二週間いただきましょうか」
それだとちょうど四月に入るしな。
赴任する前に、この会社を改革するための計画も立てて……
考えるほどどにワクワクしてきた。
こんな仕事を引き受けるのは初めてだが、やりがいがありそうだ。
必要なデータを受け取り、和磨は軽快な足取りで社長室を後にした。
エレベーターを降りたら、ロビーは社員たちでごった返していた。
ちょうど終業時間が過ぎたばかりのようだ。
ひとりふたり社員を捕まえて、色々と話を聞いてみたくなったが、目立つ行動は控えた方がいいだろうと思い直す。
会社を後にした和磨は、会社近くのコンビニに入った。
いま嵌っているドリンクゼリーを買うためだ。
種類が色々あるのだが、全制覇を目標にしている。うまいのもあれば口に合わないものもある。
外れは外れでも、また楽しいものだ。
さて、ここの種類は豊富かな。
ドリンクゼリーに夢中になっていた和磨が、棚をふたつ隔てたところに、芳崎真子がいることに、気づくことはなかった。
end
ちょこっと、おまけ・・・
棚をふたつ隔てたところにいるふたりはというと……何やら、夢中でおしゃべりをしている。
「ほら、これもいいわねぇ」
奈々子は雑誌を捲り、掲載されている写真を指して言う。
真子はちらりと写真に目をやる。
「温泉?」
「うん。ほら、ここの宿、いいと思わない?」
「うん、いいかも」
気持ちのよさそうな露天風呂に、真子も心を惹かれる。
「ゴールデンウイークに一緒に行かない? なんなら、野本さんも誘って」
「奈々ちゃん、同棲中の彼氏はいいの? 一緒に行くなら、彼とでしょう?」
「ああ、いいの、いいの。学業がすっごい忙しいのよ。わたしと旅行になんか行ってられないの」
「そうなの? 大学院ってやっぱり大変なのね」
「そういうこと。ああ、そうそう、いまセッティングしている合コンのことだけどさ」
奈々子が瞳をキラキラさせて話し出す。
彼氏持ちなのに合コンとかまずいんじゃないかと思うのだが、奈々子が合コンに一生懸命なのは、真子のためなのだ。
彼氏のいない真子に、出会いの場を作ってくれようとしている。
けど……その頑張りに、わたしときたらちっとも答えられないでいるんだけど……
恋愛っていうのはほんとに難しい。
好きという感情を抱けないのだから、もどうしようもなくて……
って、こんなことしている場合じゃなかった。
帰るのが遅くなっちゃう。
あんまり暗くなってから帰りたくない。駅からアパートまではそんなに遠くないけど、夜道の女の一人歩きは怖い。
「奈々ちゃん、飴を買いにきたんでしょう? 飴を買わなきゃ。帰るのが遅くなっちゃうわよ」
「わかった、わかった」
そう言うものの、合コンの話を終えた奈々子は、また温泉の記事に夢中になってしまってる。
やれやれ。
呆れつつも笑みを浮かべ、真子が飲料売り場に足を向けたちょうどそのとき、和磨はドリンクゼリーを手に、レジに向かった。
そして、真子の存在に気づくことなく、コンビニを後にしたのだった。
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