|
5 心の目 (彩音
「新緑の美しい季節ねぇ」
自宅の庭を眺めながら、彩音はしみじみと呟いた。
もうすぐ二時になろうというところ……
日差しを受けて輝く新緑は、心に沁み入るようだ。そして、真っ青な青空……
心地良くって、最高の一日ね。
笑い出したいような楽しい気分が意味もなく湧いてきて、彼女はふっと笑みを浮かべた。
花壇も花で賑やかだし、庭木も花盛り。
彩音は視線を左に向け、目に飛び込んでくる白いゴムマリのような花を見上げた。オオデマリだ。
レース玉みたい。
あちこちにあるウツギの木も花を咲かせ、見惚れてしまう。
ウツギは、彩音の好きな花だ。種類も多い。
ヒメウツギ……バイカウツギ……マルバウツギ……
それぞれ花の形が違い、どれもが個性のある美しさだ。
庭木だからか、強さも感じられる花。
視線を足元に向けた彩音は、爪先近くに小さな野の花が咲いているのを見て、驚いて足を止めた。
危うく踏んでしまうところだった。
「ふぅ」
汗を拭う真似をしつつ、彩音は花を見つめてその場にしゃがみこんだ。
可愛いこと……真子さんみたい。
首を傾げて小さな花を愛でていた彩音の脳裏に、ふいに長子が頭に浮かんだ。
お母様?
彩音はすっと立ち上がり、義母の家の方向に視線を向けた。
「ちょっと行ってみようかしら」
息子の和磨と真子の婚約披露パーティーのあと、長子は真子の絵を描くことに熱中しはじめた。
あの没頭ぶり、そして筆の進みからすると、もうそろそろ描き上がるのではないだろうか?
長子の絵は、情熱的だ。たとえ色合いは落ち着いていても、見る者の熱い感情を煽るようなパワーが塗り込められている。
だからこそ、真子の絵の完成は楽しみだし、ひとかたならぬ興味がある。
彩音が感じている真子の内面は、控えめでやさしく可憐……
長子が心に抱く真子の内面は、もちろん彩音と同じではないだろう。
いつもとは筆のタッチも表現も、違っていると思える。
あの長子であれば、彩音の目には見えていない真子を、描いてみせてくれるだろう。
長子の家へと続く小道を歩くうちに、心が勝手に弾みを増してゆく。
逸る気持ちから、小走りに駆けていきたくなる。
彩音はそんな自分に苦笑しながら、歩みの速度を変えることなく歩いて行った。
長子の家が見えるところまで来て、彩音は眉を上げた。
ちょうど長子が玄関から出てきたのだ。
まだ距離があるせいで、長子は彩音に気づかない。
何か考え事でもしているのか、歩いていることも上の空という表情で、家の隣に建てられている道具小屋に歩み寄ってゆく。
ふふーん。
彩音は納得して頷いた。
長子の服装は、いつもキャンバスに向かっているときのもの。
その服装で、農作業時に着用している麦藁帽子、足には長靴。
これから農園に行くつもりのようだ。
彩音は胸が躍った。
真子さんの絵は、ついに完成したんじゃないかしら。
笑みを浮かべた彩音は、急ぎ足で長子に歩み寄っていった。
「お母様」
パッと長子が振り返った。
眉が怪訝そうにしかめられる。
「驚いたじゃないの!」
狼狽を含んだ、不機嫌な返事をもらう。
どうも、このタイミングで嫁がやってきたことに、苛立っているようだ。
彩音は、内心首を捻った。
長子の反応が不可解だった。
絵が完成して、満足感でいっぱいのはずと思ったのに……まだ完成していないのだろうか?
でも、服には乾ききっていないと思える絵の具がついてるし、今しがたまで絵を描いていたのは間違いないと思うのだけど……
うまく描けずに、気分転換に農園に行こうと思い立ったのだろうか?
着替えもせずに?
すべての状況を踏まえた上で、そんな風に考えをまとめたものの、なんとなく、しっくりしない。
「農園に行かれるんですか?」
「えっ、ええ……彩音さん、何か用事があってきたの?」
長子の焦ったような反応……これは何か、彩音に悟られまいとしている様子だ。
「真子さんの絵を見せていただこうと思ってきたんですけど……なんとなく完成したように感じて」
長子は、はっきりと顔を引きつらせた。
「出来上がったんですわね?」
「出来上がったなんて一言も言ってないのに、な、なぜ確信したように言うの?」
長子のその言葉で、さらに確信は増した。
出来上がっていなかったら、長子はこんな言葉を口にしない。
「いえ、ただ……絵が完成していなかったら、お母様は、その服のまま農園に行くようなことはなさらないと……それとも、完成していないんですの?」
長子は仏頂面になり、「完成したわ」と答えた。
やっぱり!
「まあ! お母様、いま見せていただくのは……」
彩音の言葉に、長子は顔をしかめる。
「無理ですの?」
「真人は家にいないの?」
「真人さんは、昨夜は遅くまで映画を観ていたものですから、今朝はまだ寝ているんです」
「まあ、珍しいこと。それで、あなたは? あの子と一緒に観ていたんじゃないの?」
「そうなんですけど……真人さんったら、映画の場面でどうしても気になったことがあるって言い出して……それを解明するまで寝なかったようなんです」
ぐっすり寝入っていた夫の今朝の寝顔を頭に浮かべながら、彩音は答えた。
「それじゃあ、いらっしゃい」
長子はその言葉とともに、すっと踵を返す。
わっ♪
彩音は思わず両手を合わせ、弾むような足取りで長子の後に続いた。
玄関に入った彩音は、部屋の雰囲気を感じ取り、眉を上げた。
いまのいままで絵にかかりきりだったはずなのに……家の中が片付きすぎている。
いや、それだけでなく、好ましい感じで飾られている。
まるで、これからお客様をお迎えするかのようだわ。
今日、誰かやって来るのかしら?
絵を完成させつつ、部屋を片付けて飾りつけ、農園に行こうとしていた?
作業部屋に向かってゆく長子に、お客様が来るのかと問いかけてみようかと思ったが、やめておいた。
長子のところに来るらしきお客様は、たぶん……
彩音は口元に笑みを浮かべ、作業部屋に入った。
長子はキャンパスに歩み寄り、「ほら」という感じでぞんざいに手を振る。
照れくさいようだ。それはきっと、これまでとタッチが違うからじゃないかしら?
高鳴る胸を抱えて、彩音はキャンバスの前に立った。
「まあ!」
彩音は驚きに目を見張った。
少し荒いタッチなのに繊細だ。
不思議な感覚の絵。この絵の真子は魂を持ち生きている。
「素晴らしいですわ」
「そう?」
長子の返事はそっけなかったが、嬉しい響きがたっぷりこもっていた。
彩音は長子に振り返った。長子は絵に視線を向けている。
真人の母、長子の才能には感服する。
「お母様は、こんな真子さんを、心の目で見ていらっしゃるんですわね」
「まあね。そういうことだわね」
「屋敷に飾らせていただきたいですけど……無理ですわね?」
「これは真子さんに差し上げるつもりよ。そうすれば、この絵が辿り着くべきところに収まるでしょうからね」
もとより確信していた答えだが、それでもがっかりした。
「またお描きになります?」
彩音は期待を込めて尋ねた。
「ええ。今日、真子さんが来たら、ラフを描かせて貰うつもりで……あっ」
長子はしまったと言うように、口を押さえた。
ははぁ。やっぱり真子さんと和磨さんが遊びに来るのね。そうわかって、長子の行動が理解できた。
真子さんが来るから、ふたりに見せるためにいま描いている絵を完成させ、家の中を掃除して飾り、さらに夕食の食材を農園に採りに行こうとしていたというわけね。
「ねぇ、お母様。今度は真子さんと和磨を一緒に描いては……」
「それは駄目! あの子は我が強すぎるもの、邪魔よ」
「まあ、それでは和磨が……」
「可哀想なんて感情、あの子にだけは必要ないわ」
長子の言葉に、彩音はたまらず噴き出した。
彩音も、和磨は強烈なエネルギーの塊だと感じる。
そして、あらゆる情報をスポンジのように吸い込み、ひとの感情をストレートに受け取る。
一瞬の決断は、父親の真人にも勝るだろう。
女性に関してだけは、ちょっと晩熟だったけど……
でも、ようやく。
彩音は、頭の中で、和磨をキャンバスの中の真子に寄り添わせた。
そして、エネルギーの塊である和磨に、しっくりと同化する真子を、心の目で見つめた。
つづく
|
|