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6 唯一の人物 (真人
「真人さん」
その呼びかけに、書斎で調べ物に没頭していた真人は、顔を上げて振り返った。
「彩音」
「もう一時になるわ。昼食にしない?」
もうそんな時間なのか?
「確かにお腹が空いたな」
お腹をさすりながら言ったら、彩音がふっとやさしげに笑む。
その笑みに、真人の心が満たされる。
「調べ物は、まだ終わらないの?」
「いや……もう満足だ」
「そう。それじゃあ、すぐに用意してもらうわね」
彩音はすぐに部屋を出て行った。
その後ろ姿に見惚れている自分に気づき、真人は苦笑した。
彩音は長年連れ添ってきた彼の妻だが、いまになっても、どこか掴みどころがないような、不思議な存在だ。
この地球上の重力とは無関係のように、ふわふわと浮いているかのように歩き回るというか……
自在に動き回れる、たんぽぽのわたげのようだ。
彩音は、出逢った頃から誰の影響も受けず、それでいてみなを包み込むようなオーラがあって……
だいたいは真人の意見に素直に頷いてくれるのに、重要な局面では、頑として自分の意見を押し通す……いや、頑としてというのは、違うな……
そんな頑ななものじゃない。やわらかに、か……?
「ふっ」
笑いをこぼした真人だったが、そこである過去を思い出してしまい、思わずため息をついた。
あれは、和磨がもうすぐ小学校に上がろうかという頃だった。
ヨーロッパで事業を興すことになり、真人は数ヶ月向こうで仕事をすることになった。
当然真人は、彩音も一緒に連れて行くつもりだった。
母の長子もいたし、屋敷には信頼に足る国村夫妻がいるのだから、和磨の世話は彼らに任せておけばいいと、当たり前のように考えていたのだ。
事業を推し進め、いよいよ向こうに行くとなったとき、彩音が自分は行かないと言い出したのだ。
そんなつもりのなかった真人は、唖然とした。
いま思い返すと決まりが悪いほど、動転してしまった。
なのに彩音は、「あら、だって、和磨を置いてはゆかれませんわ」と、反論というのでもない、ほのぼのとした笑みを浮かべて言ったのだ。
おかげで彼は、二ヶ月も単身で暮らすことになった。
もちろん、これは彩音の決断であり、和磨が悪いわけではない。
だが、あのときの真人は和磨が憎らしくてならなかった。もちろん可愛い愛息子ではあったのだが……
あの頃から、和磨は子どもとは言えない雰囲気を漂わせていたんだよな。
今度は、単身生活を終え、日本に飛んで戻ったときのことが思い出される。
彩音をびっくりさせようと思って、帰る日にちを知らせずに帰ってきたのだが……
屋敷に戻り、彩音を探して屋敷の中を歩きまわっていたら、小走りに和磨が駆けてきた。
久しぶりの息子との対面だったから、真人も嬉しくて、「やあ」と声をかけた。
そしたら、あんの野郎!
見知らぬ人を見るように、「おじさん…誰?」と抜かしやがったのだ。
「私に決まってるだろう」
焦って答えた真人に、和磨は眉を寄せて、「決まってる?」と疑うような目で睨み、「何がさ」と言ったのだ。
「だから私はお前の父親だぞ」
六歳の息子相手に、馬鹿馬鹿しいと思ったが、そう言うしかなかった。
そしたら和磨は、疑いいっぱいの目で「ちちおや〜?」と叫んだのだ。
完璧に、父である真人のことを忘れている態度だった。
六歳の子どもというのは、こんなものなのかと、唖然とした。
私もまだまだ若かったしな……
父親としての経験も浅かった。
まあそれで、唖然としたのと憤りから、「なんで二ヶ月逢わなかっただけで、父親を忘れるんだ」と、子ども相手に食ってかかった気がする。
なのにあいつは、ずいぶんとマジな顔になり、子どもの時間の感覚ってものを理解していないとか……六歳児らしからぬ発言をしたんだよな。
呆気に取られていたら、奴はさらに説明を付け加えた。
二ヶ月というのは、一年の六分の一にも匹敵する、とんでもなく長い時間なんだよと。
驚いてしまい、和磨に向けて、「お前凄いな」と言ってしまったが、言われた和磨は、凄いと言われたことに面食らっていた。
面食らいから立ち直ると、小憎たらしくお土産の催促をしてきたが……
立腹していた真人は、おとなげないが、「おじさんなんぞと呼ばれて土産はやらん」と言ってしまった。
そのときの和磨の眼差しと表情。
やれやれと言わんばかりにため息をつき、肩を竦めると「先週末のことだけど……」と言い出して……
「真人さん」
最悪の場面を思い返しているところで、彩音が戻ってきた。
「あら……顔をしかめて、どうかなさったの?」
「いや、つまらない過去を思い返していただけさ」
「まあ、どんなこと?」
彩音は興味津々の瞳を向けてくる。
真人は笑い、妻に質問してみることにした。
「なあ、彩音。子どもの頃の和磨は、君にとって可愛かったかい?」
真人の問いに彩音は戸惑ったようだが、すぐにくすくす笑い出した。
「ええ。とっても可愛かったわ」
「だが、生意気で小憎たらしかっただろう?」
「あの子は、心の成長が早かったから。そのために、逆に戸惑うことが多かったようよ」
「逆に戸惑う? そりゃあ、どういうことだい?」
「うーん。そうね……大人が、自分を理解できていないことに?」
彩音の言葉は、少々胸に堪えた。
和磨を子どもとして見ていた自分。
真人もまた、父親だというのに、和磨の本質を見抜けず、理解できていなかったということか?
「私は……」
彩音はすっと顔を近づけ、瞳を覗き込んで笑みを浮かべた。
「真人さんは、父親として立派に役目を果たしてきたわ。あの子はあなたをとても尊敬しています」
「本当には、理解できていなかったとしてもかい?」
「真人さんったら、まさか過去の自分に完璧を望むおつもり?」
彩音の言葉に、真人は目を見開いた。
「……それは無理だな」
「でしょう。過去は、たまに手のひらの上に取り出して懐かしむもの。真人さん、わたしお腹が空いちゃったわ」
彩音がドアに向かい、真人も彼女の後について行く。
なんだかんだ言っても、六歳くらいの和磨は、まだまだ可愛かったよな。
なにせ、小学校の高学年になったら、学校にゆかず、勝手に旅行三昧だ。
学校は休まず行けと叱ったら、その必要性を感じられないと言いやがった。
本当に、手に負えない奴だった。そして、恐れを知らぬ奴だった。
中学になると、会社の仕事に興味を持ちはじめた様子だったから、面白がってスタッフとして参加させた。が、驚いたことに、部下たちより斬新で面白いアイディアを思いついて……
あの頃から、真人は、親として上司として、息子の和磨に負けまいと競ってきたような気がする。
そんなあいつが、ついに結婚か……
真人は、真子を思い浮かべて微笑んだ。
彼女は、あの超人的な男を翻弄する、唯一の人物ということになるのだろう。
つづく
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