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『来客の知らせ』
書斎の椅子に座り、本を開いていた真治は、どうにも活字が意味を持って頭に入って来ず、パタンと閉じた。
ダメだ……まるで集中できない。
昨夜のことだ、飲み会で遅くなるという拓海に話したいことができて、何時くらいに帰ってくるのか聞こうと思い、電話をかけた。
そうしたら、酔っているらしい女性が電話に出て、呂律の回らない話しぶりを笑っていたら、別の女性の声がして……どきりとした。
その声が、似ていたのだ……別れた妻の声に……
声が似ているというだけで、過剰に反応している自分に、苦いものが込み上げた……
『君は?』と問いかけたら、なんと『芳崎』と名乗るではないか。
ぎょっとさせられたせいで、思わず『真澄か?』と、声を荒らげてしまった。
それがまさか、娘の真子だったとは……
真澄にはもう会いたくない。理性がそう主張する一方で、会いたい! と、心が叫ぶ。
やれやれ……
真治は疲れた息を吐き、手のひらで顔を拭うようにして椅子に凭れた。
夕べ、帰ってきた拓海を玄関で待ち構え、この書斎に引っ張り込んで質問攻めにした。
どうして真子が、拓海と一緒にいたのか?
だいたい、拓海は妹の存在を知らなかったはずなのだ。
どうやって知ったのか問い詰めたが、拓海は口を噤んでしまい、どうしても話してくれなかった。
だが、とにかく真子の存在を知った拓海は、真治の会社を辞め、真子の勤める会社に就職したのだ。
転職の理由として、拓海は社会勉強がしたいと言った。
そんなことができるのも若いうちだけだからなどと、もっともなことを言って……
だが、なぜ、いまの会社を選んだのか、理由がよくわからなかったのだが……
これで、ようやく納得できた。
拓海が転職して、すでに半年が経つ。
ずっと黙っていたことは面白くなかったが、妹がいることを秘密にしていたのは、この自分だ。
それから、真子の話をあれこれと聞いた。
拓海との会話、職場での様子、仕事ぶり……
いくら聞いても、もっと聞きたくなって……
それでも、会いたいとは口にしなかった。
真子に会えば、いまとは違う苦しみを背負うことになる気がする。
真澄の話は聞きたくないが、真子と会えば当然のように真澄の話が出るに決まっている。
なにより、真治は真子を自分の手元に置きたくなるだろう。
真澄から無理やりにでも引き離して……
真澄や真子と関われば、自分は鬼になる気がする。
だから会わないほうがいいのだ。
だが、真治のそんな思いを知らない拓海は、『真子に会いたいだろ?』と聞いてきた。
即座に、『会わないほうがいい』と言うはずだったのに……真治は、ただ黙り込んだ。
あんな反応をしては、会いたいのだと思われただろう。
実際、会いたくてたまらない。真澄にも……
口の中に嫌な味が広がり、真治は顔を歪めた。
いま自分は、悪鬼のような顔をしているんじゃないだろうか?
真治が両手で顔を覆ったそのとき、ノックの音がした。
「父さん」
「なんだ?」
「開けるよ?」
返事をする前にドアが開けられた。
真治は内心焦りつつ、落ち着き払った表情を取り繕う。
「……真子が来るよ」
「え?」
「さっき電話したら……これから父さんに会いに来るって」
心臓が早鐘を打ち始めた。
『断わってくれ』という言葉が、口の中から飛び出そうになるのをぐっと堪える。
「もうそろそろ着くんじゃないかと思うよ」
「急……だな」
「……あ、ん」
拓海は困ったように口ごもる。
「拓海」
「何?」
「その……会わないほうがいいんじゃないかと、思うんだが」
「えっ? どうして? 父さん、真子に会いたいだろう?」
「……ああ。だから困るんだ」
「困る? なんで?」
「手元に置きたくなるからだ。無理やりにでも……」
「父さんは、そんなことしないだろうけど……」
「いや。私は自分に自信がもてない」
「……あ、あの……あのさ、実は真子はひとりで来るんじゃないんだ」
その言葉に真治は腰が抜けそうになった。
座っていたから息子に無様なところを見せずにすんだが、息が止まった。
「僕の、新しい上司と一緒で」
は?
拓海の新しい上司?
真澄ではないのか?
「……拓海」
「うん? 何?」
父親に与えた衝撃も知らず、拓海は普通に返事をする。
気が抜けた。
「いや……だが、お前の上司が、どういうわけで、真子と連れだってここに来るんだ?」
「それが……真子は、彼と付き合ってるんだ」
面白くなさそうに口にされ、真治はぽかんとする。
「そうなのか?」
「ああ。知らない間にくっ付いてて……」
面白くなさそうに言う拓海に、笑いが込み上げた。その事実がひどく気に食わないらしい。
真澄がここに来るわけでないとわかり、真治の心に余裕が生まれた。
それに、真子ひとりでなく、真子の付き合っている相手が一緒に来るのであれば、冷静でいられそうだ。
しかし、そうか……
ここに一緒に来るということは、もうその相手と結婚の約束もしているに違いない。
新しい上司のことは、拓海からすでに色々と聞かされている。
高杉という名で、『改造企画部』という部署を立ち上げ、問題だらけの社内を、精力的に改造しているという。
拓海はずいぶんと褒めていたが……
こいつが認めるような男であれば、娘の相手として不足はないということになる。
まだ会ったことのない娘だが、それでも血の繋がりなのか、娘の行く末が明るいとわかり、ほっとしてしまう。
それにしても、そうか……真子が結婚すれば、もう母方の芳崎姓ではなく別の苗字に変わることになる……
うん?
真治は眉をひそめた。
いまのいままで気づかなかったが、どうして真子は芳崎姓を名乗っているのだ?
どうして真澄の再婚相手の苗字を名乗らなかったのか?
真澄の妹の凜子の差し金だろうか?
あの勝気な性分だ。いまだに未婚である可能性は高い。
将来、芳崎姓を継ぐ者が欲しいとか言い出して……
「ねぇ、父さん」
「なんだ?」
「母さんには妹がいたんだね?」
「あ、ああ」
真治は気まずく思いながら、肯定した。
「……拓海、お前……」
そう口にする自分に、真治は焦った。
ダメだ、口にするな……
「うん?」
自分を止めようとするのに、言葉は転がり出た。
「……真澄とは……会ったのか?」
拓海が表情を消した。真治を見つめているが、動揺しているのがわかる。
「そうか……会ったんだな」
「いや!」
鋭い声で拓海は否定した。
「拓海?」
拓海は目を泳がせ、視線を落とす。
「拓海、別に誤魔化す必要はないんだぞ」
「いや……違う……そうじゃないんだ……そうじゃ……」
切れ切れに口にする拓海は、大きく息を吐き、苛立たしげに頭を掻く。
様子のおかしい拓海に、真治は眉を寄せた。
「いったい、どうした?」
「僕は……あの、真子たちが来たら、居間で話すよね?」
拓海があからさまに話を逸らしたせいで、何を言おうとしたのか気になる。
「あ、ああ、そうだな」
拓海を問い詰めてみようとしたそのとき、来客を知らせる音が鳴り響いた。
ドキリとする。
「もう、来たのか?」
落ち着かなくなった真治が腰を浮かしかけたところで、拓海が飛ぶように立ち上がった。
「しまった!」
「ど、どうしたんだ?」
「梅さんにまだ知らせてなかった。ちょっと行ってくる」
「た、拓海!」
真治は立ち上がって呼びかけたが、すでに拓海はドアから出たあとだった。
「ほんとに来たのか? 真子なのか?」
まだ開いていたドアに向かって声をかけたが、バタバタと駆けていく足音が聞える。
すぐに後を追うつもりが、真治はその場から踏み出せなかった。
自分の足を見下ろすと、滑稽なことに膝が小刻みに震えていた。
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