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その6 いまだけは…
五分待たずに、ハナの食事は届けられた。
亜衣莉に気を使わせないようにと考えてか、ノックの音を聞いた聡は、部屋から素早く出て、ハナの食事を受け取って戻ってきた。
「さあ、ハナ。待たせたね」
聡はハナに声をかけながら、トレーごと皿を床に置いた。
亜衣莉の隣に座っていたハナは、スタッとソファから下り、トコトコと皿の前に進んだ。
ハナの食事が盛り付けられた皿を見て、亜衣莉は目を丸くした。
もう筆舌に尽くし難いような、とんでもなく素敵なお皿なのだ。
「聡さん、こ、このお皿って、ハナちゃんの専用のお皿なんですか?」
「ああ…そうだろうな。たぶん、母あたりが、ハナのために買ってるんだと思うが…」
「素敵です…」
亜衣莉は、皿を覗き込むようにして、首を振った。
薔薇が乙女チックに描かれているのだ。
こんなの、一枚でいいから欲しいかも。
もちろん、高級ブランドの香りがプンプンしていて、とてもじゃないが、亜衣莉が手を出せる代物ではないだろう。
でも、もしも手に入れられたら、宝物にしちゃうだろう。眺めてるだけで、けして使えないと思う。
「亜衣莉?」
「は、はい」
ハナ専用の皿に並々ならぬ興味を向けていた亜衣莉は、聡から呼びかけられ、ハッとして顔を上げた。
わ、私ってば…
ハナ用の食事に、ずいぶんと物欲しそうな視線を向けてるように、聡には見えたかもしれない
「その…いや…。それじゃ、食べようか?」
「にゃ」
亜衣莉が返事をするより早く、なんともいいタイミングでハナが鳴いた。
お皿を前にして品よく座っているハナは、自分を見つめている亜衣莉の視線に気づいたのか、顔を上げてきた。
なんともキュートで可愛い。
亜衣莉の胸はキューンとなった。
ハナを見ていると、彼女もネコを飼いたくなってきてしまう。
いや、できるならば、ハナを連れて帰りたい。
でも、駄目だわ。
こんなご馳走、私ではハナちゃんに食べさせてあげられない。
「ハナちゃんのごはん、とっても美味しそうね」
「にゃ〜おん」
(まあねぇ)と言った気がした。
「亜衣莉」
ネコでありながらも、上品そうに食べ始めたハナを感心して見つめていた亜衣莉は、聡からやさしく呼びかけられ、右側に並んで座っている聡に目を向けた。
彼は手におしぼりを持っていて、亜衣莉に差し出してくれている。
「ありがとうございます」
お礼を言いながら、亜衣莉は受け取ったおしぽりで手を拭いた。
「それじゃ、あの…いただきます」
「うん」
嬉しげに頷いた聡は、箸を手に取った。
箸もあるんだ。
亜衣莉はほっとしつつ、自分も箸を手にした。
それにしても、豪華な料理だ。
「これって、パーティの?」
「ああ」
「凄いご馳走ですね」
思わず口にしてしまってから、亜衣莉は顔を赤らめた。
パーティのための料理なんだし…豪華なのは当然だ。
皿に盛られているローストビーフを見て、昨日、自分が作った料理が思い出された。
このローストビーフ、とっても高級そうだ。
きっと、とんでもなくお高いんだろう。
昨日は、クリスマスイブだからと、思い切って豪華にしたつもりだったのに…
「ローストビーフ…」
聡がそう口にし、亜衣莉は顔を上げた。
「君の…美味しかったな」
「はい?」
聡の言葉に亜衣莉は戸惑った。
「ほら、昨日、君の家に行ったとき…食べたろ?」
「ああ、はい」
「君が食べさせてくれたら、これもあれくらいうまく感じるのかな」
「えっ?」
思わず叫んだ途端、亜衣莉は昨日の出来事を思い出した。
聡がなんのことを言っているのか、ようやく理解できた。
昨日、彼がいつ来るかと、料理を作りながらそわそわしていて…
彼がやってきたとき、ちょうどローストビーフを盛り付けていた亜衣莉は、何も考えず、玄関にすっ飛んでいった。
ローストビーフとレタスを摘んだままだなんて、私ってば全然気づかなくて…
指先に彼の唇と舌先が触れたときの感覚が蘇り、亜衣莉の頬が染まる。
指先のうずくような感覚までも蘇り、亜衣莉は箸を手にしたまま、自分の指先をぎゅっと握り締めた。
「そんな目で見つめられたら、何も食べられなくなりそうだ」
そ、そんな目って…どんな目をしてるっていうんだろう?
聡から見つめられて鼓動が速まり、亜衣莉はドギマギしながら自分の目を手のひらで覆っていた。
「もう困らせないから、亜衣莉、さあ、食べて」
ちょっと苦笑しつつ、彼は亜衣莉を促してきた。そして、料理に向くと、すぐに食べ始めた。
ローストビーフ、昨日みたいに、食べてもらいたかったかも…
もう少し強引に言ってくれたら…
思わずそんなことを考えた自分に、亜衣莉は慌てふためき、ローストビーフを箸で摘むと、何も考えずに口に頬張った。
慌てたために、いっぺんに口に入れ過ぎたようだった。押し込んだものの、口を動かせない。
小さく切ってから口に入れるべきだったと後悔しても、いまさら遅い。
「亜衣莉、君、大丈夫か?」
「う、うう…」
聡から呼びかけられ、焦った彼女はほっぺたを含まらせた状態で、ともかくこくこく頷いた。
「一度に食べられる量じゃなかったぞ。ほら口から出しなさい。喉につまるから」
どうやら、食べるところを、しっかりと見られていたらしい。
そのことだけでも恥ずかしいのに、聡ときたら、まるで保護者が子どもを諭しているような口ぶりだ。
好きな人の前で、いったん口に入れた物を出すなんてこと、絶対にできない。
亜衣莉は口を両手で覆い、必死になって噛み砕こうと頑張った。
な、なんか、私、ひどくみっともないんじゃ…
こんな姿を見せちゃって、聡さんに愛想をつかされたらどうしよう…
「亜衣莉。ほら、無理するな。目に涙が滲んでるぞ」
涙が滲んでいるのは、嫌われるんじゃないかと不安になったせいだ。
それでも、ようやく飲み込めるくらいにまでになり、無事ローストビーフは喉を通ってくれた。
「わ、私…ごめんなさい」
情けない気分に囚われ、亜衣莉は聡に謝っていた。
涙がポロポロ頬を伝っていることも、情けなさ過ぎて堪らない。
「謝ることなんか何もないだろう? 喉につまらなくて良かった。次からは気をつけて食べるんだぞ」
「私…」
子どもじゃありませんという言葉を、亜衣莉は喉元で止めた。
実際、子どものようなことをしておいて、文句は言えない。
「遠慮はしないで欲しいな。亜衣莉」
肩をやさしく抱かれ、亜衣莉は聡と目を合わせた。
そうできればいいのだろうが…そんなに簡単に、遠慮を消し去るなんてことはできない。
「これ全部食べる必要は無いからね。君が食べたいものだけ食べればいい」
「でも、残すなんてもったいないです」
「それなら、残った分は容器に入れてもらって持って帰ればいい。それならいいだろう?」
「まあ…そうしていただけるなら…」
「君、甘いものが好きだろう。ケーキを食べたら。…そうだ。後でフルーツパフェも持ってきてくれるから」
「フ、フルーツパフェですか?」
嬉しさと困惑が一緒に湧きあがった。
いったいどんなフルーツパフェがやってくるのか知らないが…
「聡さん、そんなに食べ切れません」
フルーツパフェでは、残してしまったら、持って帰れないし、捨てるしかなくなる。
「僕が手伝ってあげるよ」
「さ、聡さんが? でも甘いものは…」
「君が食べさせてくれるんなら、喜んで食べるよ」
冗談交じりに笑いながら聡が言い、亜衣莉は頬を赤らめつつも、頷いた。
「ふぅっ」
満ち足りる以上のお腹を抱えていた亜衣莉は、聡のちょっと苦しげなため息に、思わず笑った。
いまふたりは、最初の部屋に戻り、ソファに並んで座っていた。
聡に肩を抱かれ、彼の身体にもたれかかっている現実を噛み締め、亜衣莉は至福感でいっぱいだった。
膨らみすぎたお腹は少々苦しいけど…
聡のため息は、たぶん甘いものを食べ過ぎたせいだ。
「聡さん、気分悪かったりしていません?」
「ああ。まあ、ちょっとばかし…甘さに当たった感はあるな…」
苦笑しつつそんなことを言う聡を見て、亜衣莉もくすくす笑った。
届いたフルーツパフェは、ありえない代物だった。
量は普通よりちょっと多いくらいのものだったのだが、喫茶店のパフェが霞みそうなほど、贅沢にフルーツが盛り付けられていた。
もちろん、パフェは大好きだし、できることなら全部完食したかった。
ケーキを食べたばかりで、頑張ったのだが、とても食べ切れなかった。
亜衣莉が残したフルーツパフェは、聡の望んだ通りに彼女の手で彼の口に運ばれ、パフェの入れ物は空になったのだったが…
亜衣莉は、聡の膝の上で丸くなっているハナを無意識に撫でながら、もう片方の手をソファにもたれている聡の背中に回した。
彼が好きでたまらない。
こうしてぴったりくっついていられるだけで、天にも上りそうなほどしあわせだ。
一緒にいて、本当にいいんだろうか? 私でいいんだろうか?
心に影を落とす問いを、亜衣莉は退けた。
いまだけは、何も考えずに、このしあわせに包まれていたい。
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