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その7 いまさらの不安
「さあ、美紅、ここ寒いネ、家、入るノヨ」
美紅を抱きしめていたセリアは、美紅の手を取り、怜治の家に連れて行こうとする。
ジェイは慌ててふたりに歩み寄り、美紅の空いているほうの手を掴んだ。
「母さん、駄目だよ。僕らはこれからレストランなんだ。予約してあるって言ったろ?」
『レストラン? まあ、久しぶりに会ったのに…まさか、もう帰るというの?』
ふたりを引き止める気満々のセリアに、ジェイは困って眉を寄せた。
怜治がセリアの横にやってきて、セリアの肩にそっと手を置いた。
『セリア、私も君と久しぶりに会えたんだ。今夜は、できればふたりきりで夜を過ごしたいな』
『まあ…レイ』
怜治の言葉に、セリアはポッと頬を染めて彼を見つめ返す。
ジェイは胸の中で、怜治におおいに感謝した。
怜治は、本当にいい男だ。
やさしいだけでなく、周りの者の心情を汲み取り、こんな風にうまく配慮してくれる。
「それじゃ…母さん、二十八日から会社の休みに入るから、また来るよ」
『二十八日? ま、まあ、まだ仕事なの?』
「そうだよ。レイは? レイも仕事なんじゃないかい?」
「私は休暇を取ったからね」
「セリアのため?」
「もちろん」
「年の暮れに、社長が休んでて大丈夫なの?」
ジェイはからかうように聞いた。
「ああ。優秀な社員がたくさんいてくれるからね。私などいなくてもいいくらいさ」
ジェイは真顔の怜治に吹き出した。
『ジェイ。それじゃ、二十八日にいらっしゃい。休みの間は、レイのところに泊まればいいわ。もちろん美紅も一緒にね』
セリアは最後に美紅に向けて言ったが、英語で語ったのでは、美紅に理解はできなかっただろう。
案の定、美紅は戸惑った顔で、ジェイに助けを求めるように見つめてきた。
ジェイは安心させるように美紅に頷き、母に向いた。
「ずっとは無理だよ。僕らにも予定があるし。それに美紅には妹がいるんだ。ふたりきりで暮らしてるから、彼女を置いて泊りにはこれないしね」
眉をしかめているセリアを見て、怜治はセリアの耳元に顔を寄せ、ジェイが語った言葉を通訳しはじめた。
ジェイが言った言葉を理解したセリアの眉が上がった。
『妹がいるの? ふたりきりで暮らしてるってどういうこと? ご両親はどうしたの?』
「セリア、詳しい話は、また今度ってことで」
連発された問いを、ジェイは軽く交わした。
「僕らはレストランのディナーに行かなきゃ。レイ」
ジェイは母を頼むという意味を込めて、怜治に向けて手を上げ、美紅の手を軽く引っ張って促した。
「美紅、行こう」
『ち、ちょっと、ジェイ。謎をばら撒いた途端逃げようなんて、気になるじゃないの』
「ほんとに時間がないんだよ。二十八日に来るから。そのときは、亜衣莉も連れて来れたら、連れて来るよ」
自分についてくる母に向けて言い、ジェイは美紅を車に乗せた。
「亜衣莉?」
「私の妹です」
セリアの言葉に頷き、美紅が答えた。
「亜衣莉は、とっても綺麗なんですよ。私と違って、なんでもできて…私はドジばっかりなんです」
「ドジバッカ…?」
美紅の言葉を理解しようと耳を傾けていたセリアは、首を傾げて言う。
『ドジバッカ…って、なに?』
セリアはジェイと怜治のふたりに向けて尋ねてきた。
「それは…通訳するには、少々難しい言葉だな…」
怜治が苦笑しつつ言い、ジェイも苦笑した。
「駄目駄目ってことです」
よせばいいのに、美紅は真面目な顔で説明する。
もちろん、その説明はセリアをさらに困惑させただけだった。
「ダメダメ?」
「はい。私、ドジばっかりでダメダメなんです」
「ドジバー、カリデ、ダーメダメ…ナデス?」
セリアは耳にしたまま言葉を口にしただけなのに、美紅はしょぼくれた様子で、「はい」と答えた。
ジェイは思わず吹き出しそうになったが、ぐっと堪えた。
「その説明は今夜ゆっくり、レイがしてやってくれるかい?」
「わ、私かい? そんな説明はとてもうまくできないよ」
そんな役回りはごめんだというように、怜治は首を横に振る。
その怜治の言葉は、セリアをひどく誤解させたらしかった。
『まあ、レイが上手く説明できないなんて…そんなに難しい意味の言葉なの?』
「そういうことかな」
そう口にしながら、ジェイは運転席側へと回り、車に乗り込んだ。
「それじゃ、二十八日に。明日、また連絡するよ」
ふたりに向けて軽く手を振り、ジェイは車を発進させた。
「美紅」
ずっと黙り込んだままの美紅に、ジェイは呼びかけてみた。
運転しながら、美紅の様子を窺っていたのだが、ぽわんとしあわせそうな顔をしていたかと思うと、急に心配そうに顔をしかめたり…いまは、不安そうに瞳を揺らしている。
「な、何、ジェイ?」
「いや。どうだった? 僕の母は、気に入ってもらえたかい?」
「き、気に入るとかじゃ…とっても、とっても綺麗で…髪がブロンドじゃなかったから…ちょっとびっくりして…あ、あとね、もっとスマートなひとを想像してたの」
「ああ。セリアはスマートとは言い難いな」
「な、なんかね」
「うん?」
「あの、あの…ぎゅって抱きしめてもらって…その…」
美紅はそう言って口ごもった。
気になったものの、運転中のため、美紅に視線を向け続けてはいられない。
「あったかくて…なんかね、お母さんを感じたの。ぜんぜん似てないのに…で、でもね、お母さんみたいだった…」
ちらりと視線を向けたジェイは、どきりとした。
顔を歪めた美紅の頬には、涙が零れ落ちている。
「み、美紅?」
「ジェイ…わ、私、変じゃなかった?」
「変?」
ジェイに向けて、美紅は不安そうに頷く。
「ジェイは天使様なのに、そのお嫁さんになるのがドジな私なんて…」
天使様の言葉に、ジェイは喉を詰まらせそうになった。
「まったく君ときたら…僕に言わせれば、天使は美紅、君の方だよ」
ジェイの言葉を、美紅は否定するように首を振る。
「こんなにドジな天使様なんていないわ。天使様は完璧なの。だから天使なんだもの」
「なら、君が見ている僕は、完璧なわけかい?」
「もちろん。亜衣莉も完璧よ。だからあの子も、天使って言っていいかなって思うわ」
そう言った美紅は、なにやら考え込んだ。
「でも…この最近の亜衣莉は、ちょっとドジで、おかしいところがあるわね。今日の亜衣莉ってば、とくにおかしかったし…。いったいどうしちゃったのかしら?」
それは聡に恋をしているからだ。
美紅ときたら、いまだ、そのあからさまな事実に気づかないが…
亜衣莉はあれからどうしただろう?
もちろん、聡と会えたはすだが…
それにしても聡は、どうして亜衣莉をパーティに誘わなかったのだろうか?
やはり忘れていたのだろうか?
もしかすると、両親に紹介するには、まだ時期が早いとでも思っていたのだろうか?
そう考えたジェイは眉をひそめた。
考えてみれば、ふたりは恋人という立場になったばかりのはず…
ジェイは、気まずく顔をしかめた。
パーティに勝手に送り込んでしまって、良かったんだろうか?
聡には、彼になりの考えがあったのでは?
せめて、聡と会ったところを、この目で見届けるべきだったのでは?
不安がむくむく湧いてきて、ジェイは顔を歪めた。
もちろん、いまさらだが…
だが、聡の母親の百合子は、とてもいいひとだ。
たおやかで聡明で…
「うん、大丈夫だ」
「ジェイ、何が大丈夫なの?」
心配そうな問いかけを貰い、ジェイは我に返った。
どうやら、無意識に口にしてしまったらしい。
「いや、その。亜衣莉のことさ、心配いらないだろうと思ってね」
「そう?」
「ああ」
「伊坂室長、亜衣莉のこと、ほったらかしにしないで、ちゃんと構ってくれてるのかしら? あの子、初対面なひとだと硬くなるし、人見知りなところがあるから」
美紅の言葉に強い同意を感じ、再び不安が頭をもたげてきた。
亜衣莉は、確かに美紅のいうとおりの子だ。
聡は彼女をひとりにはしないはずだが…亜衣莉自身は、あんなパーティを楽しめているだろうか?
伊坂家の跡取りの聡を、狙っている女は多いはず…
まさか、聡の目の届かないところで、嫌がらせなんて受けてないよな?
社内で美紅が受けていたイジメの現場が頭に浮かび、ジェイの頬がひくつく。
も、戻ってみるべきだろうか?
けど、レストランの予約が…
「美紅?」
「はい、なあに?」
「亜衣莉が心配かい?」
「心配だけど…ジェイ、どうしたの?」
顔をしかめているジェイを見て、美紅は戸惑ったようだ。
「様子を見に行くかい?」
「えっ? でも、レストランに行くんでしょう?」
「そうなんだが…」
「それじゃ、急いで食べて戻ればいいんじゃない。予約してるのに行かなかったら、お店のひとを困らせちゃうだろうし」
「だけど、急いで料理を出してもらうことはできないと思うよ」
「そう…。そうだわ、電話してみるわ」
パチンと両手を叩いた美紅は、バッグの中から携帯を取り出し、すぐに電話をかけた。
もちろん、相手は亜衣莉だろう。
「どうだい?」
「呼んでるんだけど…出ないわ」
「出ない? …美紅、亜衣莉は携帯を持ってきたと思うかい?」
「さ、さあ?」
出ないところをみると、持って出ていない可能性のほうが高そうだ。
目的地のレストランについたら、ジェイが聡に電話してみることに決め、ふたりは先を急いだ。
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