|
その8 度し難きマヌケ
ポケットの中で携帯が鳴り始め、聡はきゅっと眉を寄せた。
聡に寄り添っていた亜衣莉は、着信音を耳にした途端、聡から慌てて身を離してしまった。
亜衣莉からやさしい愛撫を受けて、至福を満喫していたところだったハナは、不服そうな顔を上げ、なんの罪もない聡を睨んできた。
さらに、聡がポケットから取り出した携帯に向けて、数回素早いパンチを繰り出してくる。
「ハ、ハナちゃん」
聡の邪魔になると思ってだろう、亜衣莉は慌てて聡の膝に乗っているハナを抱き上げた。
「ジェイからだ」
「えっ、ジェイから?」
電話の相手がジェイだとわかって、亜衣莉はホッとしたような顔になった。
『聡、亜衣莉はどうしてる?』
携帯に出た途端、なぜだかジェイは、急くように聞いてきた。
「もちろんここにいるさ」
聡はハナを胸に抱きしめている亜衣莉を見つめながら答えた。
ハナときたら、亜衣莉の胸の膨らみに、しっかりと密着している。
少々許し難い気分に囚われる。
「君が連れてきてくれたから…」
亜衣莉とハナの密着具合に気を取られ、ジェイに向けては、気もそぞろで聡は答えた。
『彼女は、あれからすぐ君に会えたんだな? いま、パーティを楽しめてる様子かい?』
ひどく気掛かりそうに、ジェイは言う。
「パーティには参加していないんだ」
『参加してない? どうして? 亜衣莉はやっぱり馴染めなかったのか?』
「そういうことでは…」
そう言いかけて、聡はいったん言葉を止めた。
確かに亜衣莉は、あんな大掛かりなパーティは馴染めないだろうが…
それでも、翔の彼女や従妹の綾乃は、パーティをそれなりに楽しんでいたようだった。
もちろん、妹の怜香も。
そうだ…考えたら、亜衣莉はあの三人と同じ年…
彼女たちとなら、亜衣莉も…打ち解けたかもしれないな。
まあ、いい。いまは自分が独占…
『聡?』
「ともかく、彼女はいま私と一緒にここに…」
『彼女を、連れてってよかったのか?』
どうしてなのか、ジェイは極端に声を潜めてそんなことを言う。
『ジェイ、もしかして、伊坂室長と話してるの?』
小さな声だったが、美紅の声だとわかった。
『美紅』
『ねぇ、亜衣莉はちゃんと楽しめてるみたい?』
『それが、パーティには参加していないらしいんだ。けど、聡と一緒にいるらしいから』
『えっ? ど、どうして? パーティに行ったのに、どうしてパーティに参加していないの?』
ひどく戸惑った声で美紅が言う。
そのとき、腕をとんとんと叩かれ、聡は自分を問いかけるように見つめている亜衣莉と目を合わせた。
「あの、姉は?」
聡は亜衣莉に向けて頷き、また携帯に向けて口を開いた。
「ジェイ、君らのほうは、いまどこにいるんだい?」
『レストランだよ』
レストラン?
「セリアも一緒なのか? 日本に来ていると聞いたが」
『怜治のところに行って、セリアにも会ってきたさ。けど、いまはレストランにいるんだ。ディナーを予約してたんだよ』
『ジェイ、お願い、ちょっと貸して』
美紅の声が聞こえ、ジェイの携帯は美紅の手に渡ったようだった。
『室長、あの、妹はご迷惑をかけてませんか? ご迷惑なら、すぐに迎えに行きますけど』
「迷惑なんてことはない。君らはこれからディナーなんだろう。彼女のことは心配いらないし、君らはゆっくりしてくるといい」
『でも…伊坂室長のお家、今夜はパーティなんですよね? 妹が来ちゃったから、室長、パーティに参加してられないんじゃないんですか?』
「星崎君、そういうことでは…」
「あの、姉なんですか?」
彼の腕を揺すって、亜衣莉が聞いてきた。
「あ、ああ」
「すみませんけど、ちょっと代わってもらえますか?」
請うように言われ、聡は迷ったものの、携帯を亜衣莉に手渡した。
「美紅?」
聡は、携帯を耳に当てた亜衣莉の身体をさりげなく背後から抱くようにし、携帯に顔を近づけ、美紅の声を聞き取ろうとした。
『…やっぱり居心地が悪かったの?』
途中から美紅の声が聞こえた。
亜衣莉は、いくぶん気まずそうに携帯を聡から少し遠ざける。
「う、ううん。そういうことじゃなくて…ただ私は、パーティの会場には行っていないだけで…」
『そんなっ』
美紅の叫びが聞こえた。
そのあと、なにやら言っていたが、そこらは聞き取れず、最後に口にされた『すぐ迎えに行くから』という言葉だけが聡の耳に届いた。
『美紅、携帯貸して』
ジェイが言い、彼は美紅から携帯を取り上げたようだった。
「亜衣莉」
聡もやさしく呼びかけながら、亜衣莉から携帯を取り上げた。
「星崎君に、迎えの必要はないと言ってくれ。亜衣莉は私と一緒で、充分楽しんでいるからって」
『その言葉じゃ、納得は無理そうだけど…』
「ついでに言えば、ハナも一緒だ」
聡は亜衣莉のやわらかな胸で、満足そうにしているハナを羨ましい気分で見つめながら言った。
まったく、ハナときたら…
ネコの特権なのだろうが…面白くない。
『ハナも? 美紅、亜衣莉は聡の家のネコと遊んでるんだってさ』
「にゃわん!」
それほど大きくはなかったのに、携帯から聞こえてくるジェイの言葉を聞き取ったのか、ハナが異議を申し立てるように、大きな声で鳴いた。
いや、この場合、吼えたという方が合っているかもしれない。
「ジェイ、君はいま、ハナの機嫌を大いにそこなったぞ」
『えっ? ぼ、僕はそんなつもりじゃ…』
ハナの性格をよくわかっているジェイは、大慌てで言う。
ジェイの反応と、いまだ不機嫌そうなハナを見つめ、聡はくすくす笑った。
「なかったと、一応彼女に伝えて置こう。それじゃ、ディナーを楽しんでくるといい。一時間ほどしたら、私も亜衣莉を家まで送ってゆくつもりだ。星崎君の家で落ち合おう」
「わかった」
ジェイの返事を最後に、聡は携帯を切った。
「星崎君は、私と君が付き合い始めたことを、いまだに知らないみたいだな?」
「は、はい。な、なんか…姉の中では、聡さんと私が付き合うっていうのは、ありえないことみたいで…」
「それなら、今夜のうちにはっきりと伝えておこうか? まさか、君と私が付き合うことに、反対するようなことは…」
聡の言葉に、亜衣莉は顔を歪めた。そして、「さ、さあ」と、困ったように頭を傾げる。
「姉は…言っても、信じないんじゃないかって思います」
「そうか。だが、ともかく、彼女は君のたったひとりの家族であり、姉だ。きちんと話しておこう」
そう口にした聡は、眉を寄せた。
「姉に…なるんだな」
「はい? 聡さん?」
「君と結婚したら、あの星崎君が、僕の義姉になるんだなと思ってね」
さらに極めつけ、ジェイは彼の義兄ということになるのだ。
眉を寄せた聡は、その気難しげな顔のまま、亜衣莉に目を向けた。
どうしたのか、亜衣莉は瞳を落ちつかなそうに揺らし、その頬はひどく赤らんでいる。
「亜衣莉? 君、かなり顔が赤いな? 気分でも悪いんじゃないのか?」
「し、知りません!」
顔を真っ赤にし、頬を膨らませて亜衣莉が叫ぶ。
聡は戸惑った。
「いったい、急にどうしたんだ? 僕は、君を怒らせるようなことを、何か言ったかい?」
「そ、そうじゃなくて…もおっ、いいですっ」
むっとして顔を逸らし、亜衣莉は俯いてしまった。
「亜衣莉? 気分を害したのなら、言ってくれないと…」
「そんなんじゃないんです。私は…そ、その…」
「うん? なんだい?」
「さ、聡さんが…」
「僕が?」
聡は、亜衣莉の赤らんだ頬に触れて、答えを促すように言った。
「だから…その…けっ…こ…」
けっ…こ?
「亜衣莉、頼むから、はっきり言ってくれないか」
もどかしさを抱え、聡は亜衣莉に言った。
「にゃ〜おにゃ」
不意に、ハナが鳴いた。
ハナに目を向けると、まるで小馬鹿にしたような眼差しを彼に向けてくる。
「なんだい、ハナ?」
「にゃ〜にぃにゃあ!」
聡はぐっと眉を寄せた。
マヌケ、と言われた気がしてならなかった。
(こいつは、度し難いおマヌケにゃ…)
呆れたハナは、大マヌケな聡にさじを投げ、いい匂いのする亜衣莉の胸に顔をうずめたのだった。
|
|