恋にまっしぐら
その1 粗忽者の憂鬱



「無能」

上司の感情のこもらない言葉を頭の芯に食らい、星崎美紅(ほしざき・みく)はよろめいた。

入社して半年もすぎ、そろそろ十月に入ろうかという季節。
あまり物事を気にしない天真爛漫な美紅の心も、毎度の爆弾に、ボロ雑巾なみによれよれになっていた。

「ふぅ」

上司の呆れ返ったため息ひとつにも、びくりとする心と身体。
美紅は涙をぐっと堪えた。
ここで涙を見せたら、また軽蔑される。

どうしてこの会社に自分が採用されたのか、いまだに美紅は不思議だった。

数十社の採用試験に落ち、もう数打ちゃ当たるの試みで受けたうち、絶対に飛び越えられない境界線の果てにあったはずのこの会社。

他が全滅だったこともあり、採用通知をもらったときには、空気を掻いて泳げそうなほど舞い上がったけれど…正直、いまはもう、すぐにでも辞めたかった。

ビシッと音がしたと感じるくらいの勢いで、上司の人差し指が鼻先に突きつけられ、美紅は飛び上がった。

「これ以上失策を犯したら…」

そう言って、上司がにこりと笑う。

美紅は震え上がった。あまりに不気味だ…

「お、犯したら…?」

言葉の間に耐え切れず、美紅は繰り返してしまう。

「君の並外れた粗忽さを、強制的に矯正する」

「強制的に今日せい?」

美紅の言葉の抑揚に、上司がくいっと眉を上げた。

「君の脳内で、今の言葉を、いったいどんな漢字に変換したのか、知りたいもんだな。星崎君」

「え…えーとですね」

「矯正だ。欠点などを正しく改めさせ、まっすぐに直すこと。理解…したかな?」

「し、しました」

美紅はそう答えながら頭の中で上司の言葉を正しい漢字に変換し直した。

強制的に矯正。

「え、何を?」

思わずぽかんとして呟いてしまい、美紅はハッとした。

「早いね。もう忘れたのかい?君の粗忽さだよ。強制的に矯正したいのは…ね」

また上司が笑みを見せ、美紅は一歩退いた。

「ちなみに、粗忽とは、そそっかしい、軽率、などと同義語だ」

「すみません」

美紅は自分に向けてため息をついた。
彼女がそそっかしいのはどうにも否定しようの無い事実だ、残念ながら。

不採用になったのも、ほとんどがこのそそっかしさによる。
漢字の書き間違い。計算ミス。必要な書類を同封するのを忘れる、おまけに切手を貼り忘れる。
そしてそれらは、この職場内でも哀しいことに発揮されている。

美紅の人生、ミスの連続で成り立っているようなものなのだ。

どうしてこんなに…情けない人間に生まれてしまったのだろう。
恨みを言いたくても、母も父も、すでにこの世にいない。

ぼうっとしているからだとよく指摘されるけれど、そんなことはない。
必死になればなるほど、ミスは増えてゆく。

「少し…落ち着け」

上司の珍しいやさしい物言いに、美紅は歪めた顔を上げた。

「はい?」

「地に足を付けろ。浮き足立ってるから失敗ばかりするんだ」

なんだか胸がきゅんとして、美紅の下瞼に涙が湧いてきた。

彼女は危機を感じて、やたら瞬きをし、それを誤魔化そうとした。
そのため、まつげに振り落とされて涙が散った。

上司が恩情を見せたのか、美紅からすっと視線を逸らし、彼女の失態を見ない振りをしてくれていた他の部下たち全員に語りかけた。

「明日、この部署にひとり配属されてくる」

美紅はどきりとした。
この部署の机はすでに満杯だ。空いた席など無い。それはつまり…

辞めたい気持ちは美紅の真意だが、失職すれば、妹とふたり路頭に…

「昼の休憩時間にそいつの分の机と椅子が運ばれてくる。星崎君と矢木の間に入れる予定だ」

美紅はあからさまに安堵し、同僚のみんなからの押さえた苦笑をもらった。

この会社の職場は、どこの部屋もずいぶんと垢抜けていて、それぞれの部署が、工夫を凝らした造りの室内になっている。

机はそれぞれが個別だけれど、Uの字の曲線を描いて置かれ、仕事をしながら全員の顔を伺える。

椅子もキャビネットなども、シックなグレーのもので統一され、建設会社の名に恥じぬ、内装、インテリア、そしてビルの外観。

美紅の所属している部署は、恐ろしいことだが、この会社の中枢ともいえるところ。
この部署なくしては、この会社は支えられない。

同僚達の能力の高さには、美紅の目が眩むほどだ。

美紅がこの部署に配属、いや、この会社に採用されたことからして、何かの手違いがあったのに違いない。
そうでなければ、上司から粗忽者のレッテルを貼られるような美紅が、ここにいるわけがないのだ。




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恋愛遊牧民G様
   
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